聖書の中から
〇 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章4節)
〇 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。(第一ヨハネの手紙3章14節)
「いのちの水」誌 2011年10月号〝再生への祈り〟より引用。
マタイ福音書においてイエスの山上の教えのあと、まず記されているのが、病気のうち、最も精神的にも肉体的にも地獄の苦しみを味わうことになるものとしておそらく世界的に恐れられていたハンセン病の人のいやしの記事であった。
そして、次に記されているのが、中風で寝込んでいてひどい苦しみにある人へのいやしであったし、その次もペテロのしゅうとめの熱病のいやしであり、さらには、多くの病人をいやされたという記述である。
そして、このことは、イザヤ書53章に預言されているメシアが、「…彼は私たちの重荷を負い、私たちの病を担った」と記されていることの成就であった。(マタイ8の17)
そうした肉体の病気に次いで記されているのが、精神の病といえる、悪霊に取りつかれた人のいやしである。
次には、12年間も出血の病気があって、汚れた女とされて宗教的にも肉体的にも非常な苦しみを味わってきた人のいやされることや、生まれつきの盲人のいやしが記されている。
こうした病のいやしとともに人間にとって最も深い願いと祈りがある。それは死からの解放である。マルコ、ルカ、ヨハネなどの福音書においては、死んだ人の復活をもさせるイエスの力が記されている。
死は万人にとって最大の問題である。すべて罪悪も命にかかわるほど重くなる。相手を死に至らせるような犯罪は最も重いものである。それは命が最も大切なものだというのが当然であり、その大切なものを奪うことは最も重い罪となる。
その重要な命はあまりにもはかない。病気だけでなく一瞬の事故や、小さな砲弾、あるいは刃物によっても失われる。
愛するものが死んだときには、最も深刻な悲しみや苦しみがつきまとう。それゆえに、死にうち勝つことこそが、最も深い祈りと願いとなる。
病気の重いとき、また老年のときには死は避けられない。しかし、その死のかなたに再生があるのならば、死は最も深刻な災ではないことになる。
死の力にうち勝つという願いと祈りに応えるため、深い苦しみと悲しみを根源からいやすために主イエスは来られた。
主イエスによって 死からの再生は、万人にとって可能となった。
再生と復興への祈り、それは究極的には、死からの再生であり、この世界全体の再生であり、復興である。
死からの再生をなしうる神を信じるということ―それはこの世の一切を超える力を持つお方だと信じることである。
ここから、主の祈りとして、世界中で最も多く繰り返し祈られてきた祈りへとつながっていく。
御名が聖とされるように、この祈りは、人々によって神の本質が人間世界とはまったく別の汚されることも壊されることもないのだとみなされますように、ということである。 どんな災害や事件、事故があろうとも、それでもなお、神はその愛と真実をもって存在しておられるのだと、あくまで信じる姿勢が人間にありますようにとの願いである。
