希望について

聖書の中から

聖書は信仰の書物である。そして信仰を持って歩めば、必ず救いを与えられる。救いとは、私たちの心にある奥深い魂に平安が与えられること、罪にもかかわらず赦されて新しい命が与えられたと実感することである。

…それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、死を願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(列王記上十九・2~4より)

この地上に生きているかぎり、いかに信仰強き人であっても、時と状況においては、大きな罪に落ち込み、また気力を喪失してしまうこともあり得るということなのである。

「いのちの水」誌2006年02月号〝絶望という名の巨人と希望〟より引用。

このようなことは、「天路歴程」(*)という書物にもある。さまざまな困難と誘惑に直面しつつも神を信じ、罪赦され、かなたの光の国、神の国を目指して歩んでいる人の姿を記しているのがこの書物である。

天の国を目指す二人の旅人(「キリスト者」と、「希望者」と名付けられている)は共に歩んでいたが、そのうちの一人(「キリスト者」)がふとした油断から、歩きやすそうな楽な道をとろうと誘った。しかしまもなく激しい雨が降りはじめ、もとの正しい道に帰ることができなかった。疲れ果ててかたわらにあった小屋に入って眠った。そこから近いところには、「疑いの城」(Doubting Castle)があり、その持ち主は、巨人絶望者(Giant Despair)という。

ここに入ってしまった二人の旅人は、この巨人絶望者によって激しく打ちたたかれ、もう生きていく気力もなくなっていく。「私の心は、生きるよりも息の止まること、死を願う」(ヨブ記七・15)ほどの気持ちになった。しかし、二人の旅人のうちの一人「希望者」が、ますます弱気になって死にたいという気持ちになっていく「キリスト者」を押しとどめ、励ましていった。

「私たちが目的とする国の王(神)は、殺すことを禁じています。人が自分を殺すことは、肉体と魂を同時に殺すことになる。そのようなことになれば、死後は苦しみの世界に行くことになろうし、永遠の命は到底与えられない」と諭した。

しかし、さらに巨人絶望者はひどく迫ってくるので、弱気になった「キリスト者」の方は、もう生きていけないというほどの気持ちになっていった。このときに、「希望者」は、「神の助けを待ち望んで忍耐しよう、かつてのあの苦しい旅路であなたも神の力によってそれらの苦難を乗り越え、勝利してきたではないか」と強く勧めた。それによって絶望的になっていたキリスト者も力づけられ、二人で真夜中から祈り始めて、ほとんど夜明けまで絶えず祈り続けた。

そうした祈りによって、キリスト者は、自分がその「疑いの城」の牢獄から出て行くための鍵を胸のうちに持っていることを思い起こした。 それは、どんな固い扉をも動かすことができるものであった。

その鍵とは、「約束」という名の鍵であって、神の救いの約束は決して変わらないことを思い起こし、その約束への信仰がよみがえったのである。神は真実であるから、私たちを救い、天の国へ連れて行くと約束して下さったことを受けとめた者にとっては、これは破られることはないのである。

人間の約束は空しい。人の心は実にもろく、約束したことなど簡単に破られていく。それは人間には本質的に罪深く、不信実であるから約束は守れないからであるし、また人間が弱く、見通しもできないために、先の困難や事故、病気など、状況が変ることを予見できないために簡単に約束してしまうからである。

しかし、神は真実なお方である。

…また、どうか、わたしたちが不都合な悪人から救われるように。事実、すべての人が信仰を持っているわけではない。しかし、主は真実な方である。必ずあなたがたを強め、悪い者から守って下さる。(Ⅱテサロニケ三・3)

このようにして、二人の旅人は、神の「約束」という強力な鍵を持っていることに気付いたために、それを用いて、巨人絶望者の支配から逃れ、「疑いの城」のいろいろの扉を開けて再び天の国への正しい道へと立ち返ることができたのであった。

このように、信仰もあり、さまざまの困難を越えて来てもなおかつ、人間の弱さのために思わぬところに迷い込み、神の導きや天の国のこと、神の愛などについて疑い始める。この「疑いの城」に入ってしまったとき、そのまま疑いが深まり、神の助けや救い、喜びも力もなくなって、いろいろのことが単なる想像でなかったのか、などという気持ちになってくることがある。そうするとそれまでの神の愛を信頼しての希望が次々と消えていき、絶望となり、その絶望がますますふくらんでいく。そこから「巨人絶望者」が「疑いの城」に住んでいるとされているのであろう。

たしかに、絶望は巨人であって、二人の旅人が立ち上がれないほどに殴られて傷だらけになったというが、この世は至るところ、この「疑いの城」がそびえ、そこに絶望の巨人が立ちはだかっている。そして人間をとりこにして、動けないようにしていく。

この世に真実な存在がおられ、そのお方は真実と愛をもって私たちを導いて下さること、キリストの十字架の死によって私たちの罪が赦されたこと、死に勝利する力がこの世に存在する等々のこと、それらを、幼な子のような心で信じる人はごく一部の人でしかない。

それは、バンヤンの言う「疑いの城」に取り込まれているからである。しかし、私は絶望などしていない、と多くの人は言うであろう。さまざまの仕事、趣味、ボランティア、芸術、旅行、スポーツなどなどに生きがいを感じているし、生きる目的があり、希望がある、と言われるかも知れない。

しかし、そうしたこの世の希望は死が近づくにつれて消えていく。仕事も趣味もボランティアも何もかもできなくなっていくからである。そして最終的に死によってすべてが無くなるのであれば、それはそうした希望も絶える、すなわち絶望という状態に取り込まれていくことになる。死とはあらゆるものを呑み込んでいくものであり、望みが絶えた世界であるからである。そして、この地球も太陽すらも、有限であって最終的には、消滅の方向に向かっているのであって、目に見えるものだけを信じるのならば、この世のすべては消えていくことになる。

そうした意味で、絶望というのはまさに巨人であって、この世のすべての人を取り込んでいく。

しかし、そのような巨人に立ち向かう道は、備えられている。二千年ほど前にキリストが来られてから、その道が永遠に開かれ、聖なる大路として備えられたのである。

キリストの十字架と復活、そして再臨こそは、それらの「疑いの城」の城壁を打ち壊し、絶望という巨人をも打ち倒すことができる力を持っているのであってそれらを信じて受け入れることができたものは、その疑いに満ちたこの世の力から脱して、絶望でなく、永遠の希望を持って生きる道へと導かれる。

神は愛であること、それは希望の原点でもある。神の愛があるからこそ、人間はこの世のすべてが移り変わっていくように見えるただなかから救い出されて、清い喜びと平安へと導かれるのである。神が愛であるということは、信じなければ分からないことであるが、それはまた「約束」でもある。どんな困難も神が愛であるからこそ、救い出して下さるという約束なのであり、神を愛するものにとっては、万事が益となるようにともに働く、ということも「約束」である。 「信仰と、希望と愛は永遠に続く。その中で最も大いなるものは愛である」(Ⅱコリント十三・13)と使徒パウロが述べている通りである。

 (文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から

〇「…希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ 15の13)

「いのちの水」誌2012年05月号〝希望の源としての神〟より引用。

だれでも、未来への希望がある。子どもに大人がよく何になりたいか、と尋ねると野球の選手とか保母さんとかパン屋さんになりたいという。

幼い子どもの希望だけでなく、生きているかぎり私たちは、何らかの未来への希望を持っている。

○○へ行きたい、もっと○○が欲しい、健康が回復してほしい、よい家庭、心の通う友だち、あるいは、いま何らかの病気や悩みを抱えている人は、その苦しみから解放されること…等々、子どもから大人まで、そして病弱な人から健康な人まで、すべてよりよいものを求め、願う希望を持っている。

しかし、そうした希望は、実現できるという保障はなく、願いであり、夢のようなものであることが多い。

このような希望ではなく、必ずかなえられる希望というのを聖書は約束している。すでに、旧約聖書の古い時代、今から3700年ほども昔に、アブラハムは神から呼び出され、あなたは、郷里を捨て、友人、親族から離れて私が示す地に行きなさいと命じられた。

アブラハムは、その遠いところ、全く未知のところへと神の言葉を信じていくことになった。彼は乳と蜜の流れる地と言われるよき土地を与えられると信じて旅立った。

このように、神から与えられる希望は、強い力で迫ってくる。人間が思い描く希望は、夢のようで、実現に至らせる力はなく、さまざまのこの世の力によって壊されていくことが大部分である。

しかし、人間を超えた力を持っておられる、全能の神に由来する希望は、いかにこの世の出来事が起こって妨げようとも、壊れることがない。

それは信仰から生まれる希望である。全能の神を信じない場合にはそうした強い希望は生まれない。

神は無から有を生み出す、それと同じように神は希望の無いところに、それまで全く考えることもなかった希望をも生み出すのである。

アブラハムには、昔からの土地でずっと生活するということしかなかった。しかし、神はそのような彼に、まったく新たな希望、考えたこともない希望を与え、新たな生活へと導かれたのである。

さらに、アブラハムはその後、神からあなたの子孫は夜空の星のようになる、と言われた。神の全能を完全に信じるところまでいっていなかった彼であったが、その神からの言葉は、未来へのともしびとなって彼の希望となり続けた。

そしてその神の約束は、アブラハムだけでなく、その後の子孫にもずっと希望であり続けた。

このように、聖書における希望は、神から来る。全能の神が、あらゆるこの世の妨げをも超えて実現することを示されるゆえに、その希望は必ず実現するという本質を持っている。

この希望は、聖書全体に見られるが、とくに詩篇や預言書においては、いかなる現実の闇や困難をも超えて、神が希望を与えることが記されている。

そうした不滅の希望をさらに完全にしたのがキリストの到来であった。キリストは私たちが心の弱さのゆえにどうにもならない現実をも見据えて、その弱さや醜さを我が身に担って下さった。そこに、その弱い現実から解放されるという希望が生まれた。これは人間の根源にかかわる希望であった。

そのために、十字架は世界中で希望のシンボルとなった。十字架はキリスト教のシンボルと思われているが、それは単なるキリストの教えを表すのではなく、実は大いなる希望を指し示すものなのである。そこに私たち弱いものへの招きがあり、赦しがある。神の愛がある。神の愛こそは、希望の究極的な源だからである。

そうした愛が、地上の生活においてどうしても回復できない私たちの苦しみや悲しみ―それは愛するものの死であり、また人間関係の分裂、また取り返しのつかない罪、自分の病気の耐えがたい苦しみ等々を最終的に解決してくれるものとしての復活が与えられている。

復活こそは、十字架とならんで人間の究極的な希望となっている。死の力、それはあらゆるものをのみこんでいく。どんなに親しい人、愛で結ばれた人間同士も死によって引き裂かれる。深く結びついているほど、魂には深い空洞が生まれる。その回復しがたい傷をいやすもの、それが復活である。

私たちはただ神とキリストを信じるだけで、復活させていただける。霊のからだ、完全なからだとなって、しかも愛の神の御前にて復活させていただき、いっさいの涙や悲しみから永遠に解放される。これは究極的な希望である。

この希望がなかったら、人間がこの世に生きることは次第に希望が壊れ、消えていくしかない。火が一つ消え、また一つ消えていくようなものでしかない。

復活させていただけるという希望こそは、生きることが絶望的な状況であってもなお闇に輝く星のようにさらに強くよみがえってくるのはつぎのような箇所からもわかる。

…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。

神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(Ⅱコリント1の8~10)

普通、希望という言葉の内容は、よい生活、楽しく幸いな生活であろう。地位や経済的豊さ、人間関係のよさなどもみなそれである。だから、そうしたものがすべてなくなる死というものは一切の希望がなくなることだと思われている。

しかし、聖書においては、その死ということに直面して最も強い希望が芽を出してくる。それがここに引用した復活への希望である。ただ、神の全能とキリストの愛を信じているだけで、私たちは必ず復活させていただける。キリストの栄光のような姿として。 (フィリピ書3の21)

さらに、希望がまったく消えたと思われるようなとき―主イエスも十字架上で、わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!との深い叫びを出された。

しかし、それでもなおこのように神に向って叫ぶというところに、希望の光が残されていたのがわかる。

人間は肉体を持っているゆえに、そのからだが途方もない苦しみにあったときには耐えられない。考えることもできない。ただ叫び祈るだけとなる。それでも、神は、見放したのでなく、たしかに側におられたゆえに、キリストは復活された。

人間の側でどんなに希望がないように見えても、なお神は求めるものの近くにいてくださるのだという希望がここにある。

こうしたすべての希望は神に由来する。希望の神、と言われているとおりである。

…希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、

聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 (ローマ 15の13)

愛の神、真実な神、正義の神であり、慰めと励ましの神であり、そして希望の神なのである。

信仰こそは、それらの出発点にあるからこそ、喜びも魂の平和も信仰から来る。そして、その信仰によって与えられる聖霊が、望みなきところであっても、希望でみちあふれさせてくださるということを使徒パウロは知っていた。 これは、単なる学問や思索によるのでなく、直接に主からの啓示と聖霊が与えられたことによって、このような確信が与えられていたのである。

 (文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から

〇「マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。」(コリントの信徒への手紙一16章22~24節)

「いのちの水」誌2008年1月号〝主よ、来てください!〟より引用。

 最も平和があって欲しい家庭のなかにも、しばしば苦しい問題が生じることがある。最近もそうした事実を友人から知らされたことがある。

最も身近なところだけに、だれにでも言えないで苦しみと悲しみに打ちひしがれた心になるだろう。どうしてあのような罪を犯すのか、なぜこんなことが生じるのか等々、そうしたおりには、自らの力の弱さも思い知らされる。

そのような状況がどこまでもつのっていくときには、もう生きていく力も希望も失っていく。ことに当事者が神に希望を持つことを信じることができない場合にはそうなっていくことが多い。

主イエスが十二弟子をこの世に遣わしたとき、主は、弟子たちに「汚れた霊に対する権威を授けた。それは汚れた霊を追いだし、あらゆる病気やわずらいをいやすためであった」と聖書にある。そこに時代を超えた深い意味がある。

汚れた霊とは悪の霊である。私たちを苦しめ痛めつけようとする悪の根深い力である。主は私たちのそうした苦しみを御存じであったゆえに、そのような悪の力を根源から除き去ろうとして下さる。

私たちはたしかに今も目には見えない悪あるいは闇の力に苦しめられている。私たちの魂の内部で、ときには苦しい病という形をとって、また家庭のような身近なところで、さらに学校や職場、会社や国家などの組織において、さらには戦争や内乱のようなテロにおいても、問題の根源となっていることは、すべてに共通して、そうした悪の霊、闇の力である。主よ、来て下さい。そして昔と同様に悪の力、闇の力を追いだし、私たちに聖なる霊の力と清めを与えてください。

(文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から

〇「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光を持つ。」(ヨハネ8の12)

「いのちの水」誌2023年2月号〝キリストは世の光・命の光〟より引用。

 聖書は、全体として見ても、しばしばわずかなひと言が、あらゆる人間に、またいつ、どんな地域の人においてもあてはまるという驚くべき本質を持っている。

 例えば、聖書の最初にあることば―

…神は言われた、「光あれ!」 すると 光があった。

             (創世記1の3)

…神は愛なり。

          (Ⅰヨハネ4の8) これらは、あらゆる希望の源泉となる。どんなに闇深くとも、神のご意志によれば、ただちに光が存在するようになる。希望が見えてくるという約束であり、預言である。

 前途に闇が広がり、進むべき道のない絶望状態であっても、神が光あれ!と言われるなら、光が存在し、それによって道が見えてくる。どんな悪人とされている人でも、神が光あれ!と言われるなら、その人の心に光がともされることを信じることができる。

 このことは、私自身21歳の春まで、こうした光などまったく感じられず、そんなものがあるとも思いもよらなかったけれども、ある日一冊のキリスト教の本の立ち読みで永遠の光を知らされた。

 それは、主のご意志にかなった時が来て、私の心の深いところに、光あれ!と言われたゆえに、そのような光など、心に思うことも、考えたり他者から言われたこともまったくなかったのに、突然 神の光が心の深いところに射してきて、今日まで56年にわたってその光は消えることがなかった。

 一時的にその光が消えていくように感じても、それは少しの間であって、心の方向転換をして主に向って祈るとき、ふたたびその光を感じるようになるのだった。

 神は全能であり、無限の深い御計画をもってなされるゆえに、この御言葉の真理はだれにでもあてはまるのであって、神の全能と愛、真実を信じて求めて続けていくならば、不条理なことが自分や身近な人に、また仕事や人間関係で生じても、神は愛であるゆえに、きっと時至れば光を注いで最善にしてくださる、と信じることができる。

 そして神は愛であるゆえに、神が創造された自然もみな、木々の一つ一つ、その葉や花の色、形…等々、また幹の模様や樹形…等々も神の愛が込められていることになる。

 それゆえ、それらの姿そのものにおいても、神の愛のひとしずくがそこに落とされ、また神の息吹の愛の一吹きを感じることができるように導いてくださる。

(文 T.YOSHIMURA)