聖書の中から
〇「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4の10)
「いのちの水」誌2015年10月号〝神の愛と人の愛〟より引用。
私は、キリストの世界、聖書の世界を知るまでは、この両者の本当の意味を知らなかった。人への愛はわかったつもりでいた。自分が誰かから愛されていることは直感的にわかるし―嫌われていることもわかるのと同様―誰かを愛しているということもわかっているのは当たり前のことだからである。
しかし、そうした子供でもわかるような愛とは全く異なるのが聖書に記されている愛であった。
それは、自分を憎む人、差別する人、見下すような人に対して、その人が本当によくなるようにと祈り願う心のことだった。敵を愛し、迫害するもののために祈れ、と主イエスが言われたのは、そうした本当の愛の本質を言われたのだった。
そして、それは御国がきますように―という主が示された祈りに含まれるのもわかった。
そしてこのような愛は、学問や経験、知識、年齢、民族などまったく関係なく与えられるものであることもわかってきた。言い換えると、いくら学問があり、人生経験が長くとも、また生まれつきがよくとも、このような愛が伴うとは限らない。
それは神からの賜物だからである。神ご自身を私たちのうちに来ていただいて住んでいただかないかぎり、いかなる学問を積み重ねても、経験豊かとなってもこのような愛は生まれない。
そして、聖書がいう人への愛とはこのようなものであることが示されてきたが、それは神が私を真理や神に背を向けていたのに、それにもかかわらず、とりだして下さってその御手のうちにおいてくださった―という実感がもとにある。
神がまず愛してくださった―自分の弱いところ、足りないところ、さまざまの過失や愛のない また正しくない心の動きや言動―そうした罪をも知りつつ赦して下さるという愛を知らされた。
ここに愛がある―とヨハネの手紙では強調されている。(4章10節)
多くの人たちが、本当の愛に出会えなかったゆえに、心の病となり、また間違った愛の影に誘惑され、捕らわれて生涯を破滅させてしまう人たちも多い。
児童虐待が最近16年間で、年間1万人から8万人へと急激に増大しつつあると報道されていた。こうした統計に現れるのは氷山の一角であろう。子供を虐待することで周囲に知られるようになって統計にのるというのは現実に子供をいじめ、苦しめている実態からすると、その一部であろうからである。
児童虐待の背後には、両親が結婚や性ということの重大性を知らず、本能的な欲望から結びつき、結婚、離婚、再婚となり、そこで生まれる子供が邪魔者となるということも大きな原因と考えられる。
キリストのこと、聖書のことを知らなかったら どこに愛があるのか分からないままに一生を終えてしまうだろう。
世の人がここに愛がある―と称するものは、そこに入ってみるとそこでは本当の愛はなく、ただ人間的な感情、一時的な心や本能的に惹きつけられる情、ほかの人をおいてでも、その容姿や性格などで特定の心惹かれる人間に心を注ぐというものであって、そこには相手からの反応やお返しというものによって動かされる不安定なものがある。それは根本的に、人間の感情に結びつくものである。
そして、人間的な愛情は、相手の容姿や健康状態、能力などと深く関わり、能力の乏しいもの、容姿にすぐれないものや病弱なもの、貧しい状態にある人などは、こうした人間的な愛を受けることは概して少ない。
それに対して、神の愛は、そうしたいっさいの外見や貧富、また能力などに関わりなく、注がれるという意味で、このような愛こそ、人間が本来だれしも望んでいるものである。人はどんなに一時的に健康であっても病気になり、また人望を集めている人も突然の事故や災害、また罪を犯してしまい、闇に沈むこともある。
いかなるときにも、否、かえって弱きとき苦しみのとき、人から見捨てられるようなときにこそ、注がれるような愛、それこそ本当の愛であり、このような愛が存在するなど、到底以前は思いもよらなかったことである。
そしてまた、人間の愛は直感的にすぐにわかるが、神の愛は、長い年月を経てようやくわかるということもしばしばである。長い苦しみや悲しみにさいなまれ、運命をのろったような状況から長い年月が去ってようやくその苦しみもまた、神の愛から来ていたのだと知らされることもある。どんなに解決の道を求めても与えられなかったが、10年、20年の後に、思いがけないことから道が開かれることがあり、そのときに深い神の愛を知らされることもある。
神の愛、キリストの愛は、深く、高く、そして広い。
…また、あなたがたが、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し…(エフェソ3の18)
ヨハネの手紙には、「ここに愛がある(一書4の10)―と記されている。どこに真実な、しかも永遠的な愛があるのかと求め、さまよって愛の影にすぎないものに引き込まれている私たち人間に対して、ヨハネが受けた啓示がこのひと言に凝縮されている。
そして、ヨハネ福音書においても、ここに愛があるからこそ、その愛のうちにとどまれ! と深い愛のまなざしをもって私たちに語りかけておられる。 (ヨハネ15の10)
どこに真の人間があるのか―それも聖書に記されているキリストにある。
どこに本当の言葉があるのか―それも聖書に記されている神の言葉、キリストの言葉にある。 どこに永続的な魂の平安があるのか―主イエスは、私のうちにとどまれ、そうすれば私もあなた方のうちにとどまる。それがこの平安であると語りかけておられる。
(文 T.YOSHIMURA)
聖書の中から
〇「あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもってわたしを囲んでくださる方。」(詩篇三二・7)
〇「神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。」(詩篇三二・10)
「いのちの水」誌2009年10月号〝取り囲む主の愛〟より引用。
聖書には、神の前を歩む、ということと、神に従って行くという表現がある。多くの場合私たちは、神が先立って導いて下さるから、その後を従っていくということを思いだす。旧約聖書の出エジプト記において、雲と火の柱が、先立ってモーセや人々を導いたとあるが、これは神の臨在の象徴であり、神ご自身が彼らを導いたということである。
また、アブラハムも神からの呼びかけに従って、未知の遠い土地に親族と別れて、出発した。そして大いなる祝福を与えられていった。
新約聖書においても、主イエスは、私に従ってきなさい、と呼びかけられた。私たちは、すぐれた指導者には自然に従っていこうという気持ちになる。
しかし、悪しき指導者は、強制的に服従させる。江戸時代のような封建時代では、有無を言わさず命令に従わせた。どんなに作物が不作でも年貢を取り立て、応じないものは罰せられた。キリスト教信仰を持つことも許されず、幕府の命令には絶対服従であった。
江戸時代が終わっても、天皇というふつうの人間を神とまであがめてその天皇に従って戦争に行かされ、命を捨てるように強制させられたという歴史があった。
現代でも、子供の小さなグループや学校、会社などあらゆる組織は何らかの強制で従わせていくし、宗教も間違った宗教ほど強制と一種のおどしで従わせようとする。
このように、従うということには、なにか強制や重いものがつきまと。
しかし、それとまったく異なる従う仕方をキリストは人間の世界に導入された。それは喜びをもって、自発的に従うということである。畑に隠された宝(福音の真理)を見付けたものは、喜びのあまり持っているものをすべて売り払ってその宝を買う、とイエスが言われたとおりである。
そのようにして、二千年の間、無数の人たちがその生涯、そしてときには命まで捨てて自発的にキリストに従っていった。
このように、従うということは極めて重要なこととして聖書で記されている。
他方で、「神の前を歩む」ということも聖書では記されている。
「あなたが私の前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、私の前を歩むなら、王座につく者はいつまでも続いていく…」(列王記上八・25)
ここで、「私の前」と訳されている原語は、「私の顔」という言葉である。私たちはとても「神の顔にあって歩く」とか、「神の顔の前を歩く」などという表現はしない。しかし、旧約聖書においてこのような意外な表現があるということは、それほど神が近くにいてその御顔の前を歩むということを実感していたからであろう。
神はすぐ後ろにいて私たちを見守って下さっている。もし私たちが間違った道へとそれようとするときには、それを警告し、それでも聞かないならば、苦しみを与え罰を与えてでも正しい道に戻そうとされる。また、母親が幼な子を遊ばせるとき、いつもすぐそばで見守っているように、私たちの苦しみや悲しみをすぐにわかってくださり、耐えるための必要な力や導きを時に応じて与えて下さるということが感じられる。
主は、いつも前にあって私たちを導き、また後ろからも見守り、さらに苦しくて歩めないような時、並んで私たちを支え、共に歩んで下さるのである。
次の詩はこのような、主の取り囲む愛を深く実感した人の言葉である。
…あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもってわたしを囲んでくださる方。(詩篇三二・7) …神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。(詩篇三二・10)
(文 T.YOSHIMURA)
聖書の中から
〇「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15の5)
〇「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15の9~10)
「いのちの水」誌2009年7月号〝わが愛に居れ〟より引用。
「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなさい。そうすれば豊かに実を結ぶようになる。」
と主イエスは言われた。イエスというぶどうの木につながっているということ、それは主イエス(神)の愛のうちにとどまるということである。(ヨハネ十五・5、9)
さまざまの難しい問題はこのことを知らないか、あるいは意図的に無視することから生じる。アダムとエバも、蛇の誘惑に負けた。それは、食べてよく、見てもよいあらゆるよきもの、水をも与えられている豊かさを与えてくださった神の愛に留まらなかったゆえである。
アダムの最初の子供であったカインは、弟のアベルの供え物が神に受けいれられるのに自分のものは受けいれられないと、弟を憎んだあげく殺すという大罪を犯してしまった。それも、自分を見守ってくれている神の愛のうちに留まろうとせず、人間的感情に駆られてしまったためであった。
イエスの愛の内に留まっている、それはイエスの愛に自分の魂を結びつけることであり、また、あらゆることが、主イエスの愛ゆえになされていると信じることである。
この世には、かずかずの不幸や悲しみ、苦しみがある。それらはひどくなると、神が自分を見捨てたのではないかと思われるほどである。しかし、それでもなお、神は見捨てていない、その苦しみの背後には愛があるのだと信じること、その愛にあくまで留まることこそ、イエスが私たちに求めておられることだ。
十字架でイエスとともに処刑された重い罪人の一人は、主イエスの愛に留まり続けた。釘で手足を打ちつけられるという激しい痛みのなかでも、主イエスがきっと自分のことを思いだして下さる、その愛のお心は自分のような最も悪い人生を歩いてきたものにも、注がれると信じていた。 それはまさに主イエスの愛にとどまる、ということであった。
また、旧約聖書に現れるダビデ王も、息子が離反して父親である自分の命をねらうようになり、王宮を出て涙ながらに逃れていくという事態になった。
しかし、その悲しみと苦しみに打ち倒されそうになる状況にあっても、神の愛にとどまろうとする必死の歩みが詩篇に記されている。
私たちが主の愛にとどまるとき、主イエスもまた私たちにとどまってくださると約束されている。
悔い改めをする、神への方向転換をするということは、わが愛に居れ、というみ言葉に従って神の愛に留まろうとすることである。放蕩息子は、父親のもとからわざわざ離れ、目に見える財産をもって出ていった。その父親がいかに愛の深い者であったかはあとから知らされるのであるが、そのことはまったく分からなかった。わが愛に居れ、ということとは逆に、父の愛に背き、離れていった。そして遊び暮らしてもうだれからも相手にされず、死んでしまうというほどの状況になってようやく父のもとに帰ろう、どんな目にあってもよい、今までの自分が間違っていたと分った。そして父のもとへと帰って行った。人生が終わってしまうというときになってようやく父なる神の愛に留まろうという心が生じたのであった。
愛のうちにとどまること、病気のとき、苦難のとき、老齢のさまざまの問題が生じるとき、そして誤解、中傷、差別や侮蔑の言葉をうけるとき、そこにおいても主の愛のうちにとどまろうとすることはできる。
主の愛に留まらず、人間的考えや、人間の愛のうちにとどまるとき、一時的には燃やされるように感じることがあっても、最終的には、主イエスが言われたように私たちは、枯れていく。(ヨハネ十五・6)
このようなことは、旧約聖書にも多くみられる。詩篇のなかには、わが愛に居れ、という神からの呼びかけに全身全霊をあげて応えようとする心が満ちている。苦しみのとき、必死で叫ぶこと、それは神の愛のうちに留まろうとすることである。
使徒パウロが、古い自分は死んだ。キリストが私のうちに生きておられる、と言ったのは、主イエスのわが愛に居れ、という言葉に忠実に従おうとしたゆえに、そうした大いなる恵みが与えられたのであった。
預言者のはたらきも、要するに神の愛にとどまれ、ということを命がけで宣べ伝えるはたらきであった。
私を仰ぎ望め、そうすれば救われる、ということ、それは、神がわが愛に居れ、ということの別の表現なのである。
神がその愛のうちにとどまらせようとするために、私たちのためにイエスを送られ、イエスが十字架に付けられ、そして私たちがたくさんの律法の行いをせずとも、ただ信じるだけで主の愛のうちにとどまることができるようにして下さった。
祈り、集会、賛美、行い、すべては、主の愛にとどまるためのものである。本を読むことも、自然の美しさや厳しさを味わうこと、渓谷や山岳の力強さに触れること、それらも同様である。
それだけでなく、苦しみや悲しみであっても、それもまた神から送られることであり、主の愛にとどまるためにそのような苦難をも味わうようにと導かれる。
適切な導きをも、私たちが主のうちにとどまるために必要である。ダンテのような力ある人間であっても、そのような導き手を必要とした。よき書物、優れた指導者、よき集まり…これらもまた主イエスの愛に留まるための大きな助けとなる。
また、み言葉を伝えるために最も必要なことは、主イエスの愛にとどまり続けることである。それなくしてはキリストの福音を伝えることはできない。人間的なものにとどまるほど、主イエスは伝わらない。 このように、私たちの生活のさまざまの部分において、つねに主イエスの内に留まり、その愛が神に由来することを固く信じ、そのうちに留まっていようとすることこそ、主から与えられた恵みの道なのである。
(文 T.YOSHIMURA)
聖書の中から
〇 「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、(10)兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ローマ12の9~10)
〇「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(15)喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12の14~15)
〇「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12の19~21)
「いのちの水」誌2011年12月号〝偽りのない愛を〟より引用。
ローマの信徒への手紙は、福音の根本を明確に記しているということで比類のない重要性を持っている。私自身も、この手紙の3章のわずかの箇所の説明を読んでキリスト教信仰に導かれた。
「福音」という言葉は、もともと中国語であり、現在も中国語の聖書に使われている。この意味は、喜びの音ずれであり、喜ばしい知らせという意味である。人間の根本問題の解決の道を示すものだからである。その根本問題こそ、救いはいかになされるかであり、そのことがこの手紙に明確に記されている。(3章~5章)
それとともに、重要なのは、12章からは、救いを与えられた者の歩むべき道が記されているということである。
そして、現在も世界の重要問題であり続けているイスラエル問題の究極的な解決の道も9章から11章にかけて記されている。
救われた者の歩むべき道ということで、その最初に記されていることは、真の礼拝とは何かである。
それは、私たちの心身を主にささげていくこと、日々の生活を聖霊の導きに従って生きることだと記している。
また、キリスト者とは、キリストに結ばれたひとつのからだであり、それぞれがからだの部分として、自分に与えられた賜物を用いて、具体的にできることをなしていくこと、それが真の礼拝につながることを述べている。
さらに、すべての人に対してあてはまる最も大切なこと、愛について述べている。
それは、まず、次のような言葉である。原文を直訳すると次のようになる。
愛は、偽善的でないようにせよ。 (*)
悪を憎み、善に結びついていなさい。(ローマの信徒への手紙12の9)
(*)この文は、新共同訳では、「愛には偽りがあってはなりません。」と訳されている。偽りがあってはならない、という語の原語は、アニュポクリトス anypokritos であって、これは、否定の接頭語 a に ヒュポクリノマイ hupokrinomai 見せかける、偽る という動詞から作られた言葉で、偽りのない、という意味になる。なお、ヒュポクリノマイから、ヒュポクリテース 偽善者 という言葉が生まれ、これはそのまま英語に入って hypocrite 偽善者、hypocrisy 偽善 という言葉になっている。
主イエスは、律法学者やファリサイ人たちに対して、偽善者たちよ! と繰り返し厳しくその偽善性を指摘している。(マタイ23章)
このように、愛し合え、というより先に、愛が偽善的でないように(偽りのない愛であるように)、といういましめをのべている。
他の箇所でも、パウロは、「私たちは、大いなる忍耐をもって、苦難、労苦…親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉…などによって」神に仕えていると述べている。(Ⅱコリント6の6)
さらに、「あなた方は、真理に従うことによって、偽りのない愛を抱くに至った…」 (Ⅰペテロ1の22)というように、ペテロの手紙でも、この言葉が用いられ、偽りのない愛ということが強調されている。
なぜこのようにとくに言われているのか、それは、愛が偽りを伴っている、言い換えれば愛らしく見せかけるが実は、愛ではないということがあまりにも多いからである。
この世で愛と思われているものは、実は、真の愛ではない。そこには何からの自分中心がいつも入り込んでいるという意味で偽りの愛だと言える。なぜかと言えば、真実の愛とは、無差別的で、主イエスが言われたように、太陽や雨が誰にでも降り注いでいるように、特定の人だけに及ぶということでない。たとえ無に等しいような者でも、汚れた者、あるいは敵対するような者でもまた、死に瀕しているような人に対しても同じ様に働く。
しかし、この世の愛は親子、兄弟、あるいは男女の愛など、みな極めて限定的である。自分の子どもなど家族、あるいは特定の異性とかにしか働かないからである。そうした愛は、いつも自分の家族、自分が好きだ、といったように、愛の動機に自分というのがその根底にある。
また、この世の愛は、すぐに消えたり変質する。最も激しい男女の愛は、また一方の者のちょっとしたひと言や自分中心の行動でもたちまち冷えていくようなはかないものである。
これに対して真の愛は、神に根ざしているゆえに永遠であり、相手がどのように変質しようとも、あるいは悪くなろうともなお注がれるような本質をもっている。 このように、真の愛にくらべるとき、この世の一般に言われる愛はみな、きわめて限定的であり、一時的である。それは、愛のように見えるだけで、実は自分の願いや欲望の変化したものにすぎないという意味で偽りの愛ということにある。それゆえに、新約聖書では家族同士の愛や男女の愛などはまったく触れてもいない。(文 T.YOSHIMURA)

