聖書の中から
〇「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15の5)
〇「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15の9~10)
「いのちの水」誌2009年7月号〝わが愛に居れ〟より引用。
「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなさい。そうすれば豊かに実を結ぶようになる。」
と主イエスは言われた。イエスというぶどうの木につながっているということ、それは主イエス(神)の愛のうちにとどまるということである。(ヨハネ十五・5、9)
さまざまの難しい問題はこのことを知らないか、あるいは意図的に無視することから生じる。アダムとエバも、蛇の誘惑に負けた。それは、食べてよく、見てもよいあらゆるよきもの、水をも与えられている豊かさを与えてくださった神の愛に留まらなかったゆえである。
アダムの最初の子供であったカインは、弟のアベルの供え物が神に受けいれられるのに自分のものは受けいれられないと、弟を憎んだあげく殺すという大罪を犯してしまった。それも、自分を見守ってくれている神の愛のうちに留まろうとせず、人間的感情に駆られてしまったためであった。
イエスの愛の内に留まっている、それはイエスの愛に自分の魂を結びつけることであり、また、あらゆることが、主イエスの愛ゆえになされていると信じることである。
この世には、かずかずの不幸や悲しみ、苦しみがある。それらはひどくなると、神が自分を見捨てたのではないかと思われるほどである。しかし、それでもなお、神は見捨てていない、その苦しみの背後には愛があるのだと信じること、その愛にあくまで留まることこそ、イエスが私たちに求めておられることだ。
十字架でイエスとともに処刑された重い罪人の一人は、主イエスの愛に留まり続けた。釘で手足を打ちつけられるという激しい痛みのなかでも、主イエスがきっと自分のことを思いだして下さる、その愛のお心は自分のような最も悪い人生を歩いてきたものにも、注がれると信じていた。 それはまさに主イエスの愛にとどまる、ということであった。
また、旧約聖書に現れるダビデ王も、息子が離反して父親である自分の命をねらうようになり、王宮を出て涙ながらに逃れていくという事態になった。
しかし、その悲しみと苦しみに打ち倒されそうになる状況にあっても、神の愛にとどまろうとする必死の歩みが詩篇に記されている。
私たちが主の愛にとどまるとき、主イエスもまた私たちにとどまってくださると約束されている。
悔い改めをする、神への方向転換をするということは、わが愛に居れ、というみ言葉に従って神の愛に留まろうとすることである。放蕩息子は、父親のもとからわざわざ離れ、目に見える財産をもって出ていった。その父親がいかに愛の深い者であったかはあとから知らされるのであるが、そのことはまったく分からなかった。わが愛に居れ、ということとは逆に、父の愛に背き、離れていった。そして遊び暮らしてもうだれからも相手にされず、死んでしまうというほどの状況になってようやく父のもとに帰ろう、どんな目にあってもよい、今までの自分が間違っていたと分った。そして父のもとへと帰って行った。人生が終わってしまうというときになってようやく父なる神の愛に留まろうという心が生じたのであった。
愛のうちにとどまること、病気のとき、苦難のとき、老齢のさまざまの問題が生じるとき、そして誤解、中傷、差別や侮蔑の言葉をうけるとき、そこにおいても主の愛のうちにとどまろうとすることはできる。
主の愛に留まらず、人間的考えや、人間の愛のうちにとどまるとき、一時的には燃やされるように感じることがあっても、最終的には、主イエスが言われたように私たちは、枯れていく。(ヨハネ十五・6)
このようなことは、旧約聖書にも多くみられる。詩篇のなかには、わが愛に居れ、という神からの呼びかけに全身全霊をあげて応えようとする心が満ちている。苦しみのとき、必死で叫ぶこと、それは神の愛のうちに留まろうとすることである。
使徒パウロが、古い自分は死んだ。キリストが私のうちに生きておられる、と言ったのは、主イエスのわが愛に居れ、という言葉に忠実に従おうとしたゆえに、そうした大いなる恵みが与えられたのであった。
預言者のはたらきも、要するに神の愛にとどまれ、ということを命がけで宣べ伝えるはたらきであった。
私を仰ぎ望め、そうすれば救われる、ということ、それは、神がわが愛に居れ、ということの別の表現なのである。
神がその愛のうちにとどまらせようとするために、私たちのためにイエスを送られ、イエスが十字架に付けられ、そして私たちがたくさんの律法の行いをせずとも、ただ信じるだけで主の愛のうちにとどまることができるようにして下さった。
祈り、集会、賛美、行い、すべては、主の愛にとどまるためのものである。本を読むことも、自然の美しさや厳しさを味わうこと、渓谷や山岳の力強さに触れること、それらも同様である。
それだけでなく、苦しみや悲しみであっても、それもまた神から送られることであり、主の愛にとどまるためにそのような苦難をも味わうようにと導かれる。
適切な導きをも、私たちが主のうちにとどまるために必要である。ダンテのような力ある人間であっても、そのような導き手を必要とした。よき書物、優れた指導者、よき集まり…これらもまた主イエスの愛に留まるための大きな助けとなる。
また、み言葉を伝えるために最も必要なことは、主イエスの愛にとどまり続けることである。それなくしてはキリストの福音を伝えることはできない。人間的なものにとどまるほど、主イエスは伝わらない。 このように、私たちの生活のさまざまの部分において、つねに主イエスの内に留まり、その愛が神に由来することを固く信じ、そのうちに留まっていようとすることこそ、主から与えられた恵みの道なのである。
(文 T.YOSHIMURA)
聖書の中から
〇 「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、(10)兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ローマ12の9~10)
〇「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(15)喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12の14~15)
〇「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12の19~21)
「いのちの水」誌2011年12月号〝偽りのない愛を〟より引用。
ローマの信徒への手紙は、福音の根本を明確に記しているということで比類のない重要性を持っている。私自身も、この手紙の3章のわずかの箇所の説明を読んでキリスト教信仰に導かれた。
「福音」という言葉は、もともと中国語であり、現在も中国語の聖書に使われている。この意味は、喜びの音ずれであり、喜ばしい知らせという意味である。人間の根本問題の解決の道を示すものだからである。その根本問題こそ、救いはいかになされるかであり、そのことがこの手紙に明確に記されている。(3章~5章)
それとともに、重要なのは、12章からは、救いを与えられた者の歩むべき道が記されているということである。
そして、現在も世界の重要問題であり続けているイスラエル問題の究極的な解決の道も9章から11章にかけて記されている。
救われた者の歩むべき道ということで、その最初に記されていることは、真の礼拝とは何かである。
それは、私たちの心身を主にささげていくこと、日々の生活を聖霊の導きに従って生きることだと記している。
また、キリスト者とは、キリストに結ばれたひとつのからだであり、それぞれがからだの部分として、自分に与えられた賜物を用いて、具体的にできることをなしていくこと、それが真の礼拝につながることを述べている。
さらに、すべての人に対してあてはまる最も大切なこと、愛について述べている。
それは、まず、次のような言葉である。原文を直訳すると次のようになる。
愛は、偽善的でないようにせよ。 (*)
悪を憎み、善に結びついていなさい。(ローマの信徒への手紙12の9)
(*)この文は、新共同訳では、「愛には偽りがあってはなりません。」と訳されている。偽りがあってはならない、という語の原語は、アニュポクリトス anypokritos であって、これは、否定の接頭語 a に ヒュポクリノマイ hupokrinomai 見せかける、偽る という動詞から作られた言葉で、偽りのない、という意味になる。なお、ヒュポクリノマイから、ヒュポクリテース 偽善者 という言葉が生まれ、これはそのまま英語に入って hypocrite 偽善者、hypocrisy 偽善 という言葉になっている。
主イエスは、律法学者やファリサイ人たちに対して、偽善者たちよ! と繰り返し厳しくその偽善性を指摘している。(マタイ23章)
このように、愛し合え、というより先に、愛が偽善的でないように(偽りのない愛であるように)、といういましめをのべている。
他の箇所でも、パウロは、「私たちは、大いなる忍耐をもって、苦難、労苦…親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉…などによって」神に仕えていると述べている。(Ⅱコリント6の6)
さらに、「あなた方は、真理に従うことによって、偽りのない愛を抱くに至った…」 (Ⅰペテロ1の22)というように、ペテロの手紙でも、この言葉が用いられ、偽りのない愛ということが強調されている。
なぜこのようにとくに言われているのか、それは、愛が偽りを伴っている、言い換えれば愛らしく見せかけるが実は、愛ではないということがあまりにも多いからである。
この世で愛と思われているものは、実は、真の愛ではない。そこには何からの自分中心がいつも入り込んでいるという意味で偽りの愛だと言える。なぜかと言えば、真実の愛とは、無差別的で、主イエスが言われたように、太陽や雨が誰にでも降り注いでいるように、特定の人だけに及ぶということでない。たとえ無に等しいような者でも、汚れた者、あるいは敵対するような者でもまた、死に瀕しているような人に対しても同じ様に働く。
しかし、この世の愛は親子、兄弟、あるいは男女の愛など、みな極めて限定的である。自分の子どもなど家族、あるいは特定の異性とかにしか働かないからである。そうした愛は、いつも自分の家族、自分が好きだ、といったように、愛の動機に自分というのがその根底にある。
また、この世の愛は、すぐに消えたり変質する。最も激しい男女の愛は、また一方の者のちょっとしたひと言や自分中心の行動でもたちまち冷えていくようなはかないものである。
これに対して真の愛は、神に根ざしているゆえに永遠であり、相手がどのように変質しようとも、あるいは悪くなろうともなお注がれるような本質をもっている。 このように、真の愛にくらべるとき、この世の一般に言われる愛はみな、きわめて限定的であり、一時的である。それは、愛のように見えるだけで、実は自分の願いや欲望の変化したものにすぎないという意味で偽りの愛ということにある。それゆえに、新約聖書では家族同士の愛や男女の愛などはまったく触れてもいない。(文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から
〇 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである。」(ヨハネ第一の手紙・四・19)
〇 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一の手紙四・10)
「いのちの水」誌2002年5月号〝キリストの愛・聖霊・平和〟より引用
私たちがキリストを信じ、愛しているとき、互いに信じる者同士も主にある愛をもって関わることができる。主イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネ福音書十四・15)と言われたが、その掟と訳されている言葉の内容とは、互いに愛しあうということであった。すなわち、神(主イエス)を愛することが原点であり、そこから互いに愛し合うこと、仕え合うことが生まれる。
主イエスも、一番重要なこととして、神を愛し、隣人を愛することと教えて、まず神を愛することをあげられた。
しかし、私たちが神を愛する前に、すでに主は私たちを愛されたのであって、最初の出発点は、私たちが神を愛したことでなく、神がまず私たちが気付かないうちから愛して下さっていたことである。キリストが最後の夕食を迎えるときにも、わざわざ弟子たちの足を洗うということをされた。それは主イエスの弟子たちへの深い愛の象徴的行動であった。
イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 (ヨハネ十三・1)
このように私たちがまず神を愛したのでなく、まず神の方から、主イエスの方から私たちを愛して下さったということは、聖書で繰り返し言われている。
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである。(ヨハネ第一の手紙・四・19)
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。( ヨハネ第一の手紙四・10)
パウロも同様にこのことを強調している。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された。(ローマの信徒への手紙五・8)
このように、まず私たちへの神の愛があった。そのことを知ると、私たちにもおのずから神を愛し、主イエスを愛する心が生まれる。そこからキリストの戒めである、互いに主にあって愛し合うということが生まれてくる。
私たちは単に信じているだけなのか、主イエスを愛しているのかが問われている。主イエスへの愛がなければ、戒めも守れない。自分を愛してくれるものだけに好意を示そうとする、それは聖書の愛でなく、人間の好き嫌いの感情であり、それは特定の人のみに注がれる差別的な感情である。そこからは決して真実なものは生まれず、分裂や混乱、ねたみなどが生じる。 キリストへの愛を持つことができるのは、神からの多くの愛を頂いたゆえであり、その愛によって無差別的な愛が初めて生まれる。(文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から
〇「私は戸口に立ってたたいている。だれでも私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、私とともに食事をする。」(黙示録3章20節)
「いのちの水」誌2000年2月号〝戸口にて戸をたたく〟より引用
これは、神への真実な姿勢がゆるみ、信仰がなまぬるくなっている人々に対しての呼び掛けです。すでに信仰を持っていながら燃えるような何かを感じなくなってしまうということは、よくあることです。それに対してキリストはつねに戸をたたいていると言われます。
かつて主イエスは「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」という有名な約束を語りました。しかし、私たちが門をたたくその前から、キリストはいつも私たちの心の戸をたたいていると言われています。ここに神の私たちに対する愛があります。
目に見えないキリストあるいは神が私たちの心の戸をたたいているなど、どうしてわかるのかという人がいると思います。そのたたく音を聴こうとすることが「祈り」です。私たちは今も生きて働くキリストが私たちの心の扉のすぐそばにいて下さって、その戸をたたいて下さっているのを知らないとき、私たちが他人の関心を引こうとして、いわば他人の心をたたき続けます。自分に関心を持ってほしい、自分を好いて欲しい、自分の友達、あるいは後押しする者になってほしいなどなどです。人間社会のさまざまの醜い出来事は政治の世界も含めてたいていこうした他人の心を自分に引き寄せようという考えと結びついています。
しかし、もし私たちが心の扉を開くなら、キリストは私たちの心の内に入って下さってともに住んで下さる。そしてともに食事をするとまで言われています。ともに食事することはつよい結びつきの象徴として言われています。食事を共にすることはよく聖書に出てきます。主イエスが十字架につけられて処刑される前夜に最後の夕食をしたことは、レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵画によって広く知られていますが、そのほかにも復活したイエスも弟子たちとともに食事したことがルカ福音書(二四章に二カ所)にもヨハネ福音書(二十一章)にも記されています。
主イエスとともに食事をする、すなわちそれは単に現在の私たちが目には見えないけれども、生きているキリストと深い交流を与えられるということにとどまるのでなく、世の終わりに与えられる神の国において、豊かな神との交わりを与えられるという終末的な希望と約束をも指し示しているのです。
勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。(二十一節)
さらにキリストは、戸を開いてキリストを受け入れる者をキリストがついている王座にともに座らせるとまで約束しています。これは驚くべき約束です。キリストとともに目に見えない食事をすることを許された者は、最も高いところに引き上げられて祝福の世界に招かれるということです。 このことは、たんに将来の約束であるだけでなく、現在の私たちにもその一端を味わうことが許されているのです。(文 T.YOSHIMURA)

