信仰について

聖書の中から
〇 「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。」(マタイ4章19節)

「いのちの水」誌2002年12月号〝イエスが引き寄せた人々〟より引用。

十字架上で処刑されたイエスの体をどうしたかなどということは、聖書的にはどうでもよいことだと思われるであろう。それは、心の問題や真理に関わることを主題とするはずの聖書にはそのような雑事のようなことは記さないと思われるかもしれない。

 しかし、聖書にはそのような遺体の処置に関する記述のなかにも、信仰にかかわる重要な意味が込められている。

 イエスの遺体を受け取って、新しい墓に埋葬したい、という特別な願いを持っていたのは、十二弟子でもなく、主イエスと行動を共にしたとも記されていない人であった。それはアリマタヤのヨセフという人物である。だれも顧みないような、重罪人として処刑された人間の遺体をわざわざ引き取って、自分の新しい墓に入れるということ、それは、よほどの主イエスへの愛と尊敬の気持ちがなければできない。

 そのために自分が周囲の人から批判され、地位が引き下ろされるかもしれない。けれども、主イエスはそうした危険をも顧みないほどに、このヨセフの心を自らに引き寄せたのである。イエスは、どんな状況であっても、さまざまの人間を引き寄せる。

 イエスは誕生のときからすでに、はるか東方の博士たちを引き寄せた。砂漠を越えて、数百キロをはるかに越える長い旅路を危険を冒しても主イエスに会いたいとの切実な願いを起こさせる存在であったのがわかる。

 また、イエスの一言、私についてきなさい!という一言で、ヤコブ、ペテロ、ヨハネたちは主イエスに引き寄せられ、従うようになった。そして、弟子のペテロに言われた、「あなたを人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉は、イエスに向かって引き寄せる特別な力を、ペテロにも与えようという約束に他ならない。

 また、当然毎日の生活の衣食のことについても、だれかがイエスの世話をしたのである。

そのような身の回りの世話をするための女性たちもまたつぎのように、イエスのもとに集められていったことも記されている。

イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち…そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ福音書八・2)

 ヨセフが自分の地位や将来において重大な損失となるかも知れないのに、あえて、主イエスの弟子であることを言って遺体を引き取るという、だれもしなかったことを申し出たのである。これは十二弟子たちすら考えもしなかったことである。

 主イエスはさまざまの人を徹底して愛し抜かれた。(十三・1)その現れをここにも見ることができる。 だからこそ、このヨセフはこのように遺体を引き取ることを申し出たのであった。主イエスの愛に動かされたのでなかったらこのような行動をとることはあり得なかった。

 私たちの言葉や行いは、主イエスを見つめてなされているか、あるいは人間の個人的な欲望や感情でなされているか、の二つに分かれる。イエスの愛を受けた者、実感した者は自ずからその主イエスを見つめて何事もするようになる。主イエスの愛を感じていない場合には、人間の欲望や、人間的感情や意思で行うようになる。その場合には愛といっても、自分を愛してくれる者だけへの感情であり、憎しみやねたみも当然つねに生じてくる。しかし、主イエスから受けた愛に動かされるほど、どのような状況やどのような人に対しても祈りの心をもって対するようになる。

 主イエスが死に至る最後まで人間を愛し抜かれたということの他の例は、ルカ福音書に記されている。それは十字架上の重罪人のことである。そのような最後の場面においてすら、一人の犯罪人は主イエスの愛が伝わってきて、その愛に感じて悔い改めたのであった。

 また、息を引き取るときに、ローマの将軍のような権力と武力のただなかで生きてきた人すら、つぎのように深く心を動かされ、イエスがふつうの人間でなく、神の本質をもった特別な人であることを示されたのであった。

百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マルコ福音書十五・39)

 このように、主イエスは生きているときから、死の直前、そしてその死後もさまざまの人を引きつけていくのである。これは、つぎの主イエスご自身の言葉が実現していったのである。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネの福音書十二・32 )

 (文 T.YOSHIMURA)

〝信なくば立たず〟

これは中国の古代思想家孔子の言葉である。弟子から政治とは何かを問われて、孔子は、食と、兵と信の三つをあげた。言い換えると、経済、軍備、人間同士の信実(そのなかに政治家への信頼も含む)である。弟子がそのうちの一つをどうしても捨てねばならないならどれをまず捨てるかと問われ、孔子は、兵(軍備)を捨てると言った。

 さらに、弟子がその次にどうしても捨てねばならないときには残りの二つのいずれを捨てるかと尋ねた。孔子の答えは、意外なことに、食を捨てる、と言った。

 人間は皆、昔から死ぬものだ。しかし、信(*)なくば、民は立つことができない、と。(「論語・顔淵 第十二の7」岩波文庫では160~161P) (*) 信という漢字は人偏と言から成る。「信」とは、「人の言葉が心と一致すること」と説明されている。(「漢和中辞典」貝塚茂樹他編) それゆえ、現在は人間の性質としていうとき「真実」と表記するのが一般的であるが、本来は、「信実」という表記であった。

「いのちの水」誌2015年10月号〝信なくば立たず〟より引用。

今から2500年ほども昔から、このように、食が第一、軍備も不可欠ということが当たり前―現代でも―であった時代に、すでに「信」の重要性がこのように言われていることに驚かされる。

 ことに現在の教育やさまざまの大学の研究、科学技術、インターネットの膨大な知識などがはんらんする中で、こんなに古くから言われている「信」のことが念頭にないのが、現在の日本や多くの国々の実態である。

 信なくば立たず―このよく知られた言葉でいう「信」とは何か。

 それは、語源の説明からもわかるが、嘘偽りのないこと―信実なことである。孔子は、その「信」こそ、人間が立ち行くために何よりも重要なことだと見抜いていた。

 いくら食があっても、また軍備を整えても、信なくば、人間は本当に立つことができない。人間同士に不信実がある―嘘があれば到底その関係は立ち行かず、崩れてしまう。一人の人間の魂も同様である。

 現在の日本の政治においても、まったく「信」―信実さがない。安保法制の決議にしても、あまりにも一方的、少数者の存在や意見をふみにじるものであった。

 そして、まず軍備が重要だとして集団的自衛権が行使できるようにしてしまった。そして「食」(経済)の重要性については、株価の報道などにみられるように、毎日毎日休むことなく言われている。

 そうした状況において、「信」が重要だ、何にもまして重要だ、といった意見はマスコミなどでも見た覚えがない。

 人間は、残念なことに、いくら科学技術や、教育、学問が発達しても、「信」ということに関しては、まったく進歩がないのがわかる。

 この「信」の重要性をさらに徹底して述べているのが、聖書である。聖書こそは、最初から最後まで、食糧や軍備などより比較にならない重要性を「信」においている書である。

 孔子が教えたよりはるかに深く、広い意味において「信」の重要性が一貫して語られている。

 しかも、孔子は、人間同士の信であったが、聖書はその人間を創造し、万物をも創造した神への信を第一としている。神への信なくば、神の持つ信実や愛、清いこと、正義への信もない。それらがないということは、不正や汚れたことを認め受け入れることにつながる。

 そこからあらゆる悪事や混乱が生じる。

 人をも万物をも愛をもって創造した神を信じるとき、人をもいかに悪い人であっても、その人がよくなるようにと祈る道が指し示されている。

 神は、その御心にかなった時には、悪人の心をもただちに変えることができるのだと、信じて対することが可能となる。

 人から裏切られ、人間不信に陥ってもなお、そのような人間をも変えることのできる神を信じる道が与えられている。

 そのような信を互いに持つとき、人間が罪深いので罪を犯してもなお、人と人の間にいてくださる神―キリストによって私たちは倒れ、滅びないですむ。神とキリストへの信実、そしてその神に対する信実によって私たちは、立ち上がることができる。

 この原理は、数千年前から、一部の民族には知られていたが、その後の歴史においてその真理の力を証しするように世界に広がった。  今後も、まず神の信実を信じ、そこから希望も、神への愛、神からの愛が与えられていくことは変ることがない。そしてそのような新たな「信」の世界は求めるときに一方的に与えられるのだということ、これもまた、聖書が一貫して語りかけていることである。

 (文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から

〇「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。 「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」」(創世記2章15~17節)

〇「主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。」(創世記7章1~5節)

「いのちの水」誌2003年8月号〝信仰とは何か(旧約聖書の信仰)〟より引用。

聖書全体が信仰とは何かを語っている書物であり、それが実に多様な内容をもっているからこそ、聖書は小さな字でぎっしりと印刷されても、二千ページにもなる。そのどこをとっても、信仰のある側面が記されているといっても過言ではない。そのような豊富な内容からここでは一部を取り出して見たい。

聖書の最初の書物は、創世記である。ここには、信仰がいかなるものか、とくに一部の個人の生き方をたどることによって明らかにされている。

他方では信仰の道がいかに誤りやすいかも示している。聖書の最初の書物がそのような、信仰の道からそれていくことの危険さをまず書いてあることに、気付かされる。

アダムと信仰ということは、ほとんど言われることがない。アダムといえば、人類最初の人間、罪を犯して禁じられた木の実を食べて、エデンの園から追い出されたことしか印象にないという人も多い。

しかし、アダムは神から直接に創造されたのであり、神のことは信仰というより、何よりも身近な存在であった。神は、人間が語るように親しく、アダムに語りかけている。「エデンの園の他のすべての木から取って食べてよい。しかし、中央の木の実は決して食べてはならない。必ず死ぬのだから」と言われたり、神が女であるエバを創造してアダムのところに連れてきたとも書かれている。こうした密接な関係があったのに、それでもなお、アダムは、神に従い続けることができなかった。

 ここに、信仰をもって生活することにおいて、いかに正しい道を歩き続けることが困難であるかがはっきりと示されている。聖書の最初にこのように、信仰の困難が記されていることは、驚くべきこととは言えない。それ以後のイスラエルの民の歴史がまさにそうであったからである。

 アダムについで、聖書を読むものに印象的であるのは、神とともに歩んで、神がとられていなくなったというエノクの記事である。信仰によってこのように、死が克服されるということがこのエノクの記事で暗示されている。

 ノアについては、その「はこ舟」のことでとてもよく知られている。周りの人がすべて、神の裁きなどないと思い込み、間違った生活にはまり込んでいた。そのただなかで、ノアは主の前に恵みを得ることができた。そして神とともに歩み、神への信仰をもって生きた。そこから全地への滅びから逃れることになった。

 神とともに歩むとは、信仰の姿をよく表している。単に信じているということでなく、日々の生活のなかで、いつも神の言葉を聞き、神の示しを受けて生きることである。

 そのようなノアであったからこそ、大洪水で一年もの長い間、「はこ舟」にて漂流していたが、その後ようやく水が引き始め、ついに陸地が現れ、ノアたちが陸地に降り立ったとき、最初になしたことは、主のために感謝しての礼拝であった。 しかし、そのようなノアであったが、生活が安定してきたときには、ぶどう酒に酔って裸で寝ていたところを子供に目撃されるとか晩年になって信仰にゆるみが生じてきたことが記されている。

 こうした信仰の生活が途中で揺らぐことがあるのは、ノアよりずっと後の人間であるが、ダビデにおいてとくにはっきりと示されている。子供のときから神を信じ、武力や詩作、音楽などいろいろの方面に恵まれていたダビデは、さまざまの困難に出会ってもつねに神への信仰を中心として生きてきた。自分が仕えていたサウル王に対しても、王がどんなに理不尽な攻撃をしてきても、なお、正しく信仰の道からはずれることはなかった。しかし、生活が安定してきたとき、重い罪を犯すことになった。それは取り返しのつかない大きい問題を生んだ。  旧約聖書において、決定的に信仰の重要性を示したのが、アブラハムである。アブラハム以前の、アダム、エノクやノアの場合と同様に、信仰は彼らが求めたというより、神から与えられている。

 (文 T.YOSHIMURA)

「いのちの水」誌2010年4月号〝人の言葉、神の言―詩篇 第十二編〟より引用。

主よ、お救いください。(*)

 慈しみに生きる人は絶え(**)

 人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。(***)(二節)

 人は友に向かって偽りを言い

 滑らかな唇、二心をもって話します。

 主よ、すべてを滅ぼしてください 滑らかな唇と威張って語る舌を。

 彼らは言います。

 「舌によって力を振るおう。

 自分の唇は自分のためだ。

 わたしたちに主人などはいない。」

(*)主よ、お助け下さい、この言葉は、ヘブル語では、ホーシーアー ヤハウェ である。 ホーシーアーとは、新約聖書で、イエスがエルサレムに入っていくときに、民衆が「ホサナ、ホサナ」といって歓迎したときの言葉も、これと同じで、ホーシーアー ナー(今、救ってください!)→ホサナ となった。ホサナももともとは、このように、切実な救いを求める叫びであったが、後に意味が変化して、歓迎の叫びのようにも使われるようになった。

(**)新共同訳で「慈しみに生きる人」とあるのは、ヘブル語で ハーシィド で、これは ヘセド(慈しみ、真実な愛)と語源的に共通しているので、新共同訳では、「慈しみに生きる人」と訳されている。口語訳では「神を敬う人」、新改訳では、「聖徒」などと訳されている。英語訳では、loyal (忠実な)とか、godly man(神を敬う人)などと訳されている。

(***)「信仰のある人」とは、 エームーン で、アーメンとか、エメス(真実)と語源的には同じ言葉。口語訳では、「忠信な者」、新改訳では「誠実な人」などと訳されている。

ここで言われているのは、人間の言葉がいかにまちがっているか、悪意や不真実に満ちているか、という深い苦しみの経験である。親しい者同士であっても、表面だけはとりつくろって聞こえのよい言葉を使うが、心の中では、深い悪意を持っている。

ここで言われているのは、「信仰のある人がなくなった」というより、注で書いた他の訳のように、真実な心をもって語る人、人と交わる人がいない、というこの世の実体についても深い悲しみである。

主イエスも、人を汚すのは口から入る食物でなく、口から出る言葉である、と言われた。不真実の心から出た言葉は、それを聞く人の心をも汚す、害悪を与えるというのである。

漢字の語源辞典によると、「信」という漢字もその意味は、 人偏に言葉 で、その語る言葉と、その人が一致している、すなわち真実な状態を指すとされている。

言葉の不真実、それはすでに人間の最初のときから始まっていた。アダムは、エバの誘惑に負けて、神から食べてはいけない、といわれていた木の実を食べてしまった。それが発覚しても、自分の罪を認めようとせず、他人のせいにしようとした。

 

この詩は「人の言葉と神の言葉」ということがテーマとなっている。

この二つのことの対比を言っている、そこに集中した詩である。

 人間の言葉と神の言葉というものがどれだけ違うかということを、この詩人は自分の経験からこれだけの短い内容に圧縮している。

この詩は、まず「主よ、お救いください。」と苦しい叫びから始まっている。だいたい旧約聖書の詩というものは、普通の日本の和歌や短歌と非常に違うのは、普通の詩の場合は単に山の桜や風に触れて趣があるとか、好きな人がいるとかいうようなことで歌を作ることが多く、生きるか死ぬかというように追い詰められた状況からの作品というのはごく少数であろう。

金と余暇が十分にあるようような貴族的な生活をしている人たちが作ったようなものが多い。けれども聖書の詩というものは、全くそれとは違っている。敵に追いつめられ迫害されたり、人間からの憎しみや悪意による苦しみ、また病気や貧しさなど生活の苦しみのさなかにあるなどのために、いますぐに助けが欲しいという人たちによるものが大部分である。

だから、どうしようもない苦しい状況の人が詩篇を読むと、すぐに分かるということがある。苦しい経験が全くないという人にはなかなか分からない。実際のところ、本当に苦しくなったらいろんな細々したことはどうでもよくなり、とにかく助けてくださいと言うしかない。

そのような人生の危機的な状況は誰もが予想していないときに来る。今非常に元気であっても、いつ苦しくて助けてくださいという時が来るか分からない。

突然の交通事故にしても、脳卒中の重症、ガンにしても、今自分は大丈夫だと思ってもいつ来るか分からない。そういうことのためにも、詩篇を学んでおくことは大事なことだと思う。

この詩人の場合は、特に人間の言葉によっていろいろと苦しめられていたことが分かる。わたしがずっと前に夜間の高等学校に勤めていたときにも、暴力をふるっていた生徒たちを、先生は黙って注意しなかったからとてもひどい状態であった。わたしはその激しい暴力や破壊行為のただなかに、赴任したとき、ほかの教師が黙認していた暴力を何とかして止めさせようとし始めたが、彼らはわたしに集中的に攻撃してくるようになった。

その後さまざまの困難なことが生じたが、神を信じてとった決断が不思議ないきさつを経て半年足らずの間に、解決に向かって言った。そのような混乱のさ中で、ある一人の生徒の言葉を今でも思い出す。「殴ったりする暴力で受けた傷はすぐに治るが、言葉の暴力があるんだ」と大声で怒鳴ったのである。

その言葉の暴力を俺らは受けてきたんやと。その生徒たちはいわゆる部落問題で差別を受けてきたのである。確かに殴ったりたたいたりすることは、割合すぐに忘れる。

ところが、ある言葉が心に突き刺さったら、それを抜こうとしても抜けないで、ずっとある種の痛みや憎しみのようなものになってずっと残ることがある。このごろのいじめ問題も単に殴る蹴る以上に、言葉でまず傷つけることも多いと思う。

わたしの知っている人も、中学の初め頃に、ある短い侮辱するような言葉を言われたがためにそれから学校に行けなくなってしまい、その後も学校を卒業していないから就職もできず、結婚もできなくなり、家で空しく過ごすというように、生涯が変わってしまったのである。

仕事で失敗しても、今の社会では周りの人がそれに対して殴ったり蹴ったりはしないが、何か冷たい言葉を投げつけられることでいたたまれなくなるということもある。

このように言葉というのは、時によっては大きい力を持って、人間が生きる希望すらなくしてしまうことがある。

 いろいろな害のある言葉とともに、害のないように思われている言葉でも、たくさん良くない言葉がある。それの代表的なものがテレビの視聴率をあげるためだけのような番組からあふれている言葉であろう。

テレビは良い影響よりもはるかに悪い影響を及ぼし続けていると考えられる。

またさまざまの週刊誌、漫画雑誌などというものも、知る必要の全くない単なる好奇心をそそるような内容が多く、当然、そこには悪い言葉が多く、そういう悪い言葉で商売しているというところがある。

昔は新聞もテレビも週刊誌もなかったのであるが、そのような時代の人間の心の方がまだ素直で、他の人に優しかったというところがある。

そういう言葉の特徴は、二心、要するに真実がないということである。真実の言葉は何か心を動かすものがある。新聞も数十頁もあるし、テレビも一日中放送しているが、それらの大多数の番組は、見て心が感動受けるという番組は本当に少ないといえよう。それらは一時の楽しみや気晴らし、あるいは現代の社会を知るという点では役に立つこともあるであろうが、苦しみのただ中にある心が本当に深い慰めを受けることはごく少ないであろう。

二節にある「信仰のある人」というのは「真実」と訳されている言葉で、信仰というものは真実ということが分かる。言葉に嘘がある。 言うことが思っていることと違う、そういう状態がたくさんあるということを言っている。それからさらに五節では、その悪しき言葉の力で上に立とうと言う人もたくさんいる。。

 (文 T.YOSHIMURA)