聖書の中から
〇「主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください。」(詩編141編3節)
「いのちの水」誌2013年9月号 〝イザヤ書における信・望・愛〟より引用。
人間はみな草のようだ。
草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、神の言葉は永遠に立つ。(イザヤ書40の6~8より)
神の言葉とは、神のご意志、そのお心から出たものであり、それが永遠に動かされないということは、神の信実の永遠を示すものである。
このことは、主イエスも言われたことである。
…天地は滅びる。しかし、私の言葉は決して滅びることはない。(マタイ24の35)
ここに、天地が過ぎ去り、滅びることがあろうとも、キリストの言葉―神の言葉は永遠にその信実を失うことはないということである。
それに対して、人間の存在そのものが実にはかないもの、枯れていくものであり、またその心やそこから出る言葉もまた実にうつろいやすい。人間はごく些細なことでも、すぐにその言動を変えてしまう。
人間には信実がない、ということは、使徒パウロもその最も重要な書簡ローマの信徒への手紙において、「正しい者はいない、その舌で人を欺く、皆迷っている」(3の10~18より)と言っている。
聖書の中から
〇「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。」(詩編121編3節)
〇「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」(詩編 121編4節)
「いのちの水」誌2005月10号 〝つばさの陰に〟より引用。
数々の問題や悩み、不安を抱える私たちを、なにが包んで下さるのか、生活に疲れた魂はそれを尋ね求める。
そのような人間の弱さに対して、古くから聖書は、神が鳥が翼の下に雛鳥を呼び寄せるような愛を表して下さることを知っていた。
神は羽をもってあなたを覆い
翼の下にかばってくださる。(詩編九十一・4)
慈しみの御業を示してください。
あなたを避けどころとする人を
立ち向かう者から
右の御手をもって救ってください。
瞳のようにわたしを守り
あなたの翼の陰に隠してください。(詩編十七・7~8)
神の愛は、いわば巨大な鳥の翼のようなもので、全世界のあらゆる苦しむ人、力なき人をその蔭に招き寄せて、その傷をいやし、新たな力を与えて下さる。
現実のこの世は、どこにも蔭のない、危険や困難に覆われているかのように見える。あるいは、自然の偶然的な出来事によって弄ばれているだけで、人間を守るものなどどこにもないように見える。
しかし、そうした表面的な状況の背後に、この詩の作者は、この世界を包む、神の大いなる翼、目には見えないけれども、たしかな守りがあることを知っていたのである。
聖書の中から
〇「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。」(詩編16編7節)
〇「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」(ローマ1章12節)
「いのちの水」誌2010年9月号 〝分かち合うために〟より引用。
また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐさめ合う(*)ことができるように祈ってもらいたい。(ローマ15の30~32、口語訳)
パウロのような歴史上で最大の賜物を神から与えられ、その書いたものが聖書として新約聖書の相当部分を占めるほどの人であっても、自分の祈りだけで十分とは決して考えなかった。他者に祈って欲しい、と願うことをまったくしないキリスト者もいる。しかしそれは聖書的なあり方ではない。
祈りという重要な霊的な領域では、無限の深みがあり、そこではだれも自分は十分なのだなどとは言うことはできない。パウロは自分が土の器だと実感していればこそ、その弱く汚れた器に神の賜物を満たしていただきたいとのあつい願いを持っていた。そのために、この引用箇所であるように、悪に打ち勝つ力と奉仕を実行するための守り、そしてローマの信徒たちと共に慰め合うことができるように祈ってほしいと願っているのである。
パウロの心に常にあったのは、自分だけの祈りで終始するというのでなく、祈りの共同体、互いの励まし合いを具体的になす共同体なのであった。
キリスト者ならだれでも持っているものがある。それが福音であり、信仰である。神の言葉である。福音を信じたからこそ、キリスト者となったのであり、福音とは神の言葉であるからである。
それゆえに、それらの目には見えない持ち物を少しでも分かちたいという気持ちはだれにでも生じる。すでに信仰を与えられている人同士が祈りをもって会うことによって、それぞれが与えられている賜物をともに分かち合うことができる。
これは、「祈の友」が生まれた理由でもあった。「祈の友」(*)の集まりは、今から八〇年近く前の、一九三二年に結核で苦しんでいた一人の青年、内田 正規(まさのり)によって始まった。
「病苦を背負わされ、貧苦に閉じ込められ、人には見捨てられ、自分にもまた絶望…こうした涙と呻き苦しみのなかにあるとき、私の身代わりに死んで下さったというキリスト、私が永遠の祝福を受け継ぐために復活されたというキリストの福音は実に驚くべき歓喜の音信(おとずれ)であった。私は初めて真実の愛というものを知った。…」
(一九四〇年 「午後三時の祈り」内田 正規著 15頁)
聖書の中から
〇「主はお前の罪をことごとく赦し。病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。」(詩編 103編3 ~4節)
〇「打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる。」(詩編 147編3節)
「いのちの水」誌2011年10月号 〝再生への祈り〟より引用。
私たちが最も願っていることは、再生である。病気になったときに、それが痛みが強く、苦しいほど私たちはその痛みや苦しみが早く治るようにと、ただそれだけを願うようになる。
それは、弱った体、傷ついた体からの再生を願うことにほかならない。
痛みで何も考えられないほど、あるいは夜も眠られないほどになると、それは全身での願いとなる。
聖書の中でも最も人間の心を直接的に表現している詩篇においては、神への切実な叫び、祈りが数多く記されている。
そして、主イエスが、地上においてなされた働きで重要な部分をしめるのが、そうした苦しみ悩む人々、とくに医者にもかかれず、痛みを軽減する薬もなく、社会的にも何の保障もなく、ただ耐えがたい病の苦しみや悲しみに打ちのめされている人たちへのいやしであり、救いであった。
聖書の中から
〇「主なる神はこう言われる。悔い改めて、お前たちの偶像から離れ、すべての忌まわしいものから顔を背けよ。」(エゼキエル書 14章6節)
〇「わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。」(エゼキエル書 18章30節)
〇「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ 5章32節)
「いのちの水」誌 2024年7月号〝二種の方向転換〟より引用。
イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って宣教を始めたが、その悔い改めとは、個々の罪を悪かったと反省する意味ではなく、この本来の意味は神への方向転換を意味する言葉である。 ヘブル語では、シューブ shub。これは、著名なドイツの旧約学者のデリッチ訳のヘブル語訳の新約聖書にこのシューブが用いられている。ギリシャ語ではメタノエオー。
(文:T.YOSHIMURA、イラスト:投稿者)
