聖書の言葉

聖書の中から

〇「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ 20章21節)
〇「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。」(一テモテ 6章18節)

「いのちの水」誌2009年10月号 〝たたけ、そうすれば開かれる ―マタイ七章七~八節〟より引用。

この世の宝というべきものは、事故や病気などあるいは予期しない出来事によって簡単に壊れ、あるいは奪われ、失われていく。しかし、神の国にかかわる宝は、決して奪われない。

主イエスが言われたように、見出した宝(*)を天に積んでいくなら、そこでは虫に食われることもなく、さびがつくこともないし、盗人によって奪われることもない。(マタイ六・19) (*)新共同訳では、宝を「富」と訳しているが、この原語(ギリシャ語)は、セーサウロス で、宝(trasure)を意味する。新共同訳でも、ほかの箇所例えば、イエスの誕生のときに東方の博士たちが「宝の箱を開けて」(マタイ二の11)の箇所や、天の国のたとえで、「畑に宝が隠されている…」といった箇所などでは、「宝」と訳している。他の日本語訳聖書である、口語訳、新改訳なども「宝」と訳している。 「富」には、次のような箇所に使われているプルートスという別のギリシャ語がある。「あなた方の富は朽ち果て…」(ヤコブ書五の2)

聖書の中から

〇「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。」(箴言 30章5節)
〇心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ 5章8節)

「いのちの水」誌 2011年10月号 〝主は心を見る〟より引用。

野の花を見よ、といわれた。それは、創造された神のお心を見ようとすることであるし、太陽や雨を見てもやはり、そうしたものを創造されたその神の心を見ようとすることである。

 聖書の記事も同様である。言葉の表面だけでなく、その言葉や出来事の背後にある神様のお心、ご意志を見ようとすることが求められている。

 敵対する人、自分を攻撃してくる人に対しても、なぜそのようなことをしてくるのか、なぜ神様はこうしたいやなことを起こされるのだろうか、とすべてをご存じである神のお心を知ろうとする。

 罪を知るとは心を見ること。自分の心を見ること。そして、まず神の国を求めるとは、神のお心を見ようとすること。

 罪を犯すとは、神のお心を見ようとしないところから生じる。

 心の清い者は、神を見る、と主は約束された。心で見るといっても、汚れた心、自分中心の心で何かを見ようとしても見えてこない。

 それは清められた心でみなければならない。聖なる霊により、また神の言葉によって清められる(ヨハネ15の3)ときに、はじめて「神を見る」と言われていることが成就する。

 神を見る、というとあり得ないように思われるが、神の本質たる愛や、清いもの、美、力、永遠、といったあらゆるよいものが見えてくる。それを与えようとする神の心も見えてくる、感じられてくるということなのである。

聖書の中から

〇「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。」(第二テモテ 2章3節)
〇「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」(第一ペトロ 2章19節)

「いのちの水」誌2011月4号 〝神の愛ー闇と混沌の中にて〟より引用。

死の陰の谷をあゆむとも、私は災いを恐れないという。私たちがこの世に生きるとき、誰しも死ぬかと思うほどのことに、1度や2度は出会うだろう。今日、大きな自然の災害によって苦しむ多くの方々のうちには、まさに「死の陰の谷」を歩んでおられる方々が多いと思われる。

なぜ、神はそのような苦しいところを歩かせるのか、なぜこの苦しみは自分なのか、なぜ、ほかの人でないのか…といった疑問は、苦しい状況が深刻であるほど、次々と持ち上がってくると思われる。

苦しみは現実に襲いかかってくる。それがなぜ、ほかの人でなく、自分なのかといった疑問は答えることができない。

しかし、はっきりしていることは、そのような苦しみのただなかにあって、神は求めるものに魂の糧と力を与えられるということである。神の愛は、そのように苦しみを通して与えられるということが実に多い。 健康で恵まれた家庭であっても、やはり神の愛を感じることはできるだろう。しかし、どんなにしてもぬぐいさられない悲しみや苦しみのなかに注がれた神の愛は、生涯忘れることができないものとなる。

(文:T.YOSHIMURA、イラスト:投稿者)

聖書の中から

〇「働く者の眠りは快い。満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。」(コヘレト 5章11節)
〇「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かにわたしをここに住まわせてくださるのです。」(詩編 4編9節)

「いのちの水」誌2000年1月号 〝嵐を静めるイエス〟より引用。

激しい嵐に飲み込まれそうになる小舟におけるイエスの眠りは、神とともにある平安の象徴として表されています。

 小舟が激しい嵐にもてあそばれ、今にも波に呑み込まれそうになっている、そのときには、激しい風の音、波の音、そして弟子たちの叫びうろたえる声が響き、舟自身も大きく揺れ動いていたのですから、そのようなところで、眠っていることなど、本来ありえないはずのことです。

 平安など本来ありえないような所にも、キリストは静かにそこにおられる、ほかのどんなものも共にいることはできないような特別な困難な状況、死が近いと思われるような状況のただなかであっても、イエスは私たちとともにいることができる。それは奇跡のようなことです。その奇跡を私たちに告げているのだと言えるのです。

 このような状況のもとでも静かに眠っている主イエスのことを書き記したこの福音書の著者(マタイ)は、常識では想像できないイエスの眠りということのなかに、表面だけの意味とは違った意味をこめていたというのがうかがえます。  いかに激しいこの世の動乱の状況のなかでも、主イエスはそこにおられる、平安をもってそこにおられる。弟子たちには気付かなかったけれども、恐れと不安のただなかですら、キリストは神の平安をもってともにいて下さるということをはっきりと示そうとしているのです。

ひまわり
聖書の中から

〇「どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」(詩編 34編2節) 〇「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」(第一コリント 10章16節)

「いのちの水」誌1999年9月号 〝キリスト教礼拝での讃美歌〟より引用。

キリスト教においては、重要な会にいつも歌を歌うのです。礼拝であっても、クリスマスの集会や人が死んだとき、葬式、結婚式、祈りの会、家を建てるとき等などあらゆるときに歌(讃美歌)を歌います。

 私がキリスト教信仰を持つようになってすぐに読んだ本の一つに、若くして高熱を出してこの世を去った人の記念文集がありました。そこに書かれていた人は、死に瀕したとき、高熱で意識がないような状態であったのに、その口からとぎれとぎれに出てきたのは、讃美歌五二〇番「しずけき川の岸辺を」であったと知って強い印象を受けたことがありました。 それは、そばで看病している両親のこともわからないほどに意識がうすくなっているのに、なおそこから「安し、安し、神によりて安し」という讃美歌の一節が出てきたというのは、いかに讃美歌が深く魂に刻み込まれていたかをしめすものです。

 それは、祈りであり、神の言に次ぐほどのものとなって魂に刻み込まれていたのがうかがえるのです。

 キリスト教における讃美とはたんに楽しいから歌うのでは決してなく、最も苦しいとき、死にかかっている時ですら、出てくるほどのものなのです。

 主イエスも、いよいよこれから捕らわれるという前夜にも、最後の夕食のあとで締めくくりとしてしたのが、讃美を歌うことであったのです。

一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコ十四・26)

 殺される直前においても、なお歌ったのは、神への祈りだからです。祈りをさらに長く引き延ばして祈り続けることが讃美であったのです。だからこそ、主イエスも捕らえられ、殺される直前に讃美の歌を歌ったのです。それはこれから起きるたいへんな事態に対処するための祈りであったからです。神を信じる者なら、祈りはどんなときにもすることが期待されているし、神はその祈りの姿勢を最も喜ばれます。だからこそ、結婚式でも、葬式でも、また新しい家を建てるときも、苦しい時も、感謝と喜びのときもどんなときにも讃美歌を歌うということが生じるのです。