聖書の言葉

聖書の中から

〇わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
〇イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ローマの信徒への手紙四・24~25)
〇すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと…(Ⅰコリント十五・3~4)
〇罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(ピリピ 三・21)
〇キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。(コロサイ書二・12)
〇イエス・キリストのことを思い起こしなさい。私の宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。(Ⅱテモテ二・8) 〇死者の中から最初に復活した方、地上の王たちを支配される方、イエス・キリストから恵みと平和があなた方にあるように。(黙示録一・5より)

「いのちの水」誌2005年3月号〝復活祭(イースター)〟より引用。

キリスト教で最も重要な祝日は、復活祭です。主イエスは、十字架で殺されたけれども、三日目によみがえって、死に勝利する力を持っていることを実際に示し、さらに神のところに帰って神とともにおられ、聖霊というかたちでいつも信じる人とともにおられるようになっています。

復活祭の決め方も、「春分の日の直後にくる満月の次の日曜日」といった分かりにくい決め方になっていて、毎年日が変る移動祝日となっていることもいっそうなじみにくいことになっています。

聖書の中から

〇「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。」(詩編121編1~3節)

「今日のみ言葉」2015月4月より引用。

「わたしは、山に向って目を上げる。わが助けはどこから来るか。天地を創造され

た神から来る。」(詩篇121)山こそは神の不動の本質を我々に語りかけ、身近に感

じさせてくれるものである。

神は単に変質しないというだけでない、その不動性、また大波のとどろきにみられ

る神の力の大きさは、またその不動の力をもって私たちを変ることなく愛し、支え、

担いつづけてくださる。

神の力は、さらにそうした不動の姿や大海のとどろきだけでなく、また植物のさま

ざまの花のような繊細な美をも創造する力をもっておられる。

そしてそのようなさまざまの意味において大いなる力をもっているゆえに、私たち

のあらゆる困難に際しても、道を開き、その困難をも乗り越えていく力を与えてくだ さると信じることができる。

聖書の中から

〇「イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」」(マタイ 21章21節)

「いのちの水」誌2023月10月号 〝ささげる心〟より引用。

アブラハムのように、最も大切なものを献げるー このようなことは、誰にでもできない。

 しかし、誰でもできる献げもの、しかも最も大切なものがある。

 それが、祈りである。良きことがあれば、感謝する。苦しみがあるとき、すべてのことがよきになると信じて祈る。誰でもができる道を備えてくださっている。

 祈れない時も、御国を与えてくださいと、祈る。愛がないからこそ、求めて祈る。聖霊を求めて祈る。

 どんな人でも、何歳になっても、一人であっても、どこであっても、真実な心もて神に祈る。

 そして感謝の祈りができる。それが神への献げものとなる。

(文:T.YOSHIMURA、イラスト:投稿者)

聖書の中から

〇「ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。」(ヨハネの黙示録1章10節)

〇「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。…しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」(第一テサロニケ5章2、4節)

「いのちの水」誌2005年3月号〝復活祭(イースター)〟より引用。

キリストの復活が日曜日であったために、日曜日を「主の日」(黙示録一・10)として集まり、礼拝を捧げるようになったのです。

日曜日のことは、主日(しゅじつ)という言い方を用いています。日曜日の礼拝を主日礼拝というのはそのためです。

「いのちの水」誌2006年4月号〝復活の重要性について〟より引用。

復活ということがいかに世界全体において重要であるか、それは復活を記念する日が、主の日として毎週記念され、礼拝の日となり、それが現在の日曜日を休むという世界的な習慣として定着していったことにも現れている。

日本ではキリスト者はわずかに一%にも満たない少数派である。しかし、キリスト教の中心にある、キリストの復活の記念日と関わりのない人はだれもいない。知らず知らずのうちに、「キリストの復活」は、日本人全体の中に切り離すことができない状況となっているのである。

キリスト教が世界に伝わっていくそもそもの出発点は、イエスの単なる教えでなく、キリストの復活があったからであり、復活したキリストの別の現れである聖霊が注がれたからであった。

聖書の中から

〇「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。」(詩編62の6)

〇「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5の5)

「いのちの水」誌 2004月8月号 〝聖書に示された希望― 詩編よりより引用。

この短い言葉が、旧約聖書における希望の本質を表している。この言葉の前に、「あなた方はいつまで人に非難を浴びせ、傾いた石垣を倒そうとするように、一緒になって倒そうとするのか」という言葉がある。この詩の作者がこのように真剣に神を仰ぎ望み、神を待ち望むのは、この人の周囲に作者を滅ぼそうとする敵意に満ちた状況があったからである。

切実な希望はこうした苦しみや悲しみに打ち倒されそうになっているときに、輝き始める。

本来ならば、望みが消えてしまいそうなときにこそ、聖書における信仰者はその希望にどこまでもすがろうとする。

この箇所で「希望」と訳された原語は、「待つ、熱心に期待して待つ」といった意味がもとにある。この箇所のギリシャ語訳が、「忍耐 hupomone」と訳される言葉を用いていることも、この原語のニュアンスを補うものである。

どのようなことがあっても、神への信頼をやめない、苦しみのなかであっても、忍耐をもって神を待ち続ける心がここにある。

このような揺るがない希望、忍耐とむすびついて待ち望む姿勢は、旧約聖書のなかではとくに詩編にはっきりと見られる。詩編は具体的な地名や人名、時代、社会的状況などのことが分からなくとも、その直接的な言葉によって数千年を経た今日でも私たちの心に近く呼びかけるものとなっている。