ジョン・ニュートン

「いのちの水」誌2013年9月号〝アメージング・グレイス〟より引用

ジョン・ニュートンは、かつては、たくさんの奴隷たちをアメリカや西インド諸島に運んで行った奴隷船の船長だった。しかし、それは当時のイギリスでは社会的に多数が認めていたことであった。国会議員の多数が奴隷貿易と関わって利益を得ていたような状況だったのである。

そのような中で、奴隷制度やその貿易の悪魔性を見抜いて、それを誤りだということは、非常に勇気のいることであった。だれもが認めていることを悪だ、と洞察するのは、通常の学問や常識、経験ではできない。

奴隷制度にしても、いまから、200年も昔であって、それが当たり前のように考えられていたとき、ジョン・ニュートンがそれが悪だということを本当に知ったのは、周囲の人たちの意見とか奴隷たちの苦しみを見たとかいう経験でもなかった。いくら奴隷たちが悲惨な状況に置かれているかを数えきれないほど見てきたにもかかわらず、わからなかった。

彼がその悪をはっきりと知ったのは、上よりの啓示によってであった。

彼が22歳のとき、イギリスに帰る船で、彼は、たまたま時間つぶしに持参していた本の一つを手にとった。それは、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」であった。何気なしに読んでいたが、ふと、そこに書かれてあることが真理なら、自分の今後はどうなるだろう、と考えるようになった。彼の当時の生活は、その本の内容とあまりにもかけ離れていて、そのままであれば自分は当然神からの裁きを受けるだろうという考えが頭をもたげ、それ以上考えることは止めた。
彼の乗った船が、激しい暴風に遭遇したのはちょうどその本を読んだ翌日だった。

その日のことを、後に書いた手紙型式の自伝では、「主の時」(The Lord’s Time)というタイトルで書いている。 大波とともに大量の水が驚くべき速さで船のなかに入り込み、沈没しかかっていた。甲板に出た船員が船に襲いかかった大波に飲まれて海中に沈んでいった。

しかし、悲しんでいる間もなかった。自分たちもそのように皆、船が沈むとともに海に呑みこまれると思ったからである。そこから助かったのは、まさに奇跡だ、と書いている。

このとき、仲間は船がもうだめだと思い、もう手遅れだ!と絶望的な声をあげた。そのようなとき、彼は、思わず「こうした努力がうまくいかないなら、主よ、私たちを憐れんでください!(Lord,have mercy on us!)」と言った。

ジョンは、長い年月にわたってこのような祈りと願いを口に出したことがなかったので、自分から出た言葉に打たれたのだ。それが、1748年の3月10日だった。この日以降、その日をすっかり忘れて過ごしたことは一度もないほどであった。

その日、いろいろと今までのことを思いにふけり、反省の時を与えられ、自分を振り返って自分ほどの罪人はいなかった、と思った。彼は、旧約聖書の箴言の次の言葉にも動かされた。

…私は呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、

 あなたがたは私のすべての忠告を無視し、 私の叱責を受け入れなかった。
それゆえ、私も、 あなたがたが災難に会うときに笑い、 あなたがたを恐怖が襲うとき、嘲けろう。(箴言1の24~26)

神はだれもが望むことのないような状況を用いて、かたくなな人間の魂を転換しようとされる。ジョン・ニュートンの場合もこのことがあてはまる。

彼は、航海での非常な苦難―もう生きられないと思われるほどの危機に直面したとき、神の手によって魂の目が開かれた。

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「いのちの水」誌2007年2月号〝アメージング・グレイスー驚くべき神の恵み〟より引用

以下に歌詞の全体を、原文とともに引用する。

驚くべき恵み ーその響きはなんとうるわしいことかー

その恵みは私のような哀れな人間を救って下さった。

私はかつて、失われた者だった。しかし、今は(主によって)見出されている。

私はかつて(何が大切なことなのか、何が悪いことなのか)見えなかった。
しかし、今は、見ることができるようになった。

(一)Amazing Grace! How sweet the sound

That saved a wretch like me!

I once was lost, but now I’m found,

Was blind, but now I see.

(文 T.YOSHIMURA)