(212)信仰とは、神へ向ってひたすら努力することではなく、神に己れをゆだねることである。…そうすれば、万事が順を追うてまったくひとりでに行われる。まず、青々とした畑、つぎに、実りを約束する穂、やがて、実った見事な穀物、そして生涯を無駄でなく、立派に過ごしたあとで、最後に安息のための収穫。「神を愛する者たちには、すべてのことが益となる。」(*)(ローマ人への手紙八・28)。 このことを信じる人にとっては、普通の意味での「幸福」や「不幸」の観念は、もはや存在しない。(ヒルティ著眠られぬ夜のために上七月一五日の項)
〇確かに、もし私たちがすべてのこと、―病気や家族の不和や死別、事故、職業上の困難などいろいろのことをも、私たちが神の愛と万能を固く信じ続けるかぎり、すべては益と変えられていくと信じることができるなら、神はそうした信仰を祝福し、実際にそのようにして下さる。これこそ、道のないところに新しい道を開き、水のない荒れ地に水をあふれさせて下さることである。
(217)この信仰のなかでは、いっさいのわざが等しくなり、互いに同等のものとなる。わざが大きかろうと小さかろうと、長かろうと短かろうと、あるいは多かろうと少なかろうと、そうしたわざの区別はいっさいなくなってしまう。
わざが神に喜ばれるのは、わざそのもののためではなく、信仰のためであり、そしてその信仰はわざがどんなに数多く、またどんなに異なっていようとも、すべてのわざの一つ一つの中に、唯一のものとして存在し、生きて働くからである。(「善きわざについて」ルター著 聖文舎刊 ルター著作集第一集第二巻15頁)
〇私たちが何かよきことをしようとするとき、それがどれほど目に見える効果があるかとか、相手や周囲の人々に評価されるか、などを考えてするなら、それは自分の判断や人間の評価を重んじてやっていることである。
しかし、自分のなそうとすることが神の御心にかなうという確信があり、万能の神、真実の神の力を信じて、その神が用いて下さるなら、無から有を生じさせるのだから、小さくとも神は必ず祝福して用いて下さる、と信じてすることは大きなわざと同じ意味を持ってくる。
重い犯罪人であっても最後のときに、イエスへの信仰をあらわした人は、キリストとともに今日パラダイスに入ると、約束されたが、ここにも信仰がどんなわざにもまして神に喜ばれることを示している。
神はどれだけ多くをなしたか、でなく、どれほど、神への愛と信仰をもってなしたかをみておられる。
