聖書の中から
〇「私は戸口に立ってたたいている。だれでも私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、私とともに食事をする。」(黙示録3章20節)
「いのちの水」誌2000年2月号〝戸口にて戸をたたく〟より引用
これは、神への真実な姿勢がゆるみ、信仰がなまぬるくなっている人々に対しての呼び掛けです。すでに信仰を持っていながら燃えるような何かを感じなくなってしまうということは、よくあることです。それに対してキリストはつねに戸をたたいていると言われます。
かつて主イエスは「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」という有名な約束を語りました。しかし、私たちが門をたたくその前から、キリストはいつも私たちの心の戸をたたいていると言われています。ここに神の私たちに対する愛があります。
目に見えないキリストあるいは神が私たちの心の戸をたたいているなど、どうしてわかるのかという人がいると思います。そのたたく音を聴こうとすることが「祈り」です。私たちは今も生きて働くキリストが私たちの心の扉のすぐそばにいて下さって、その戸をたたいて下さっているのを知らないとき、私たちが他人の関心を引こうとして、いわば他人の心をたたき続けます。自分に関心を持ってほしい、自分を好いて欲しい、自分の友達、あるいは後押しする者になってほしいなどなどです。人間社会のさまざまの醜い出来事は政治の世界も含めてたいていこうした他人の心を自分に引き寄せようという考えと結びついています。
しかし、もし私たちが心の扉を開くなら、キリストは私たちの心の内に入って下さってともに住んで下さる。そしてともに食事をするとまで言われています。ともに食事することはつよい結びつきの象徴として言われています。食事を共にすることはよく聖書に出てきます。主イエスが十字架につけられて処刑される前夜に最後の夕食をしたことは、レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵画によって広く知られていますが、そのほかにも復活したイエスも弟子たちとともに食事したことがルカ福音書(二四章に二カ所)にもヨハネ福音書(二十一章)にも記されています。
主イエスとともに食事をする、すなわちそれは単に現在の私たちが目には見えないけれども、生きているキリストと深い交流を与えられるということにとどまるのでなく、世の終わりに与えられる神の国において、豊かな神との交わりを与えられるという終末的な希望と約束をも指し示しているのです。
勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。(二十一節)
さらにキリストは、戸を開いてキリストを受け入れる者をキリストがついている王座にともに座らせるとまで約束しています。これは驚くべき約束です。キリストとともに目に見えない食事をすることを許された者は、最も高いところに引き上げられて祝福の世界に招かれるということです。 このことは、たんに将来の約束であるだけでなく、現在の私たちにもその一端を味わうことが許されているのです。(文 T.YOSHIMURA)

