信なくば立たず

〝信なくば立たず〟

これは中国の古代思想家孔子の言葉である。弟子から政治とは何かを問われて、孔子は、食と、兵と信の三つをあげた。言い換えると、経済、軍備、人間同士の信実(そのなかに政治家への信頼も含む)である。弟子がそのうちの一つをどうしても捨てねばならないならどれをまず捨てるかと問われ、孔子は、兵(軍備)を捨てると言った。

 さらに、弟子がその次にどうしても捨てねばならないときには残りの二つのいずれを捨てるかと尋ねた。孔子の答えは、意外なことに、食を捨てる、と言った。

 人間は皆、昔から死ぬものだ。しかし、信(*)なくば、民は立つことができない、と。(「論語・顔淵 第十二の7」岩波文庫では160~161P) (*) 信という漢字は人偏と言から成る。「信」とは、「人の言葉が心と一致すること」と説明されている。(「漢和中辞典」貝塚茂樹他編) それゆえ、現在は人間の性質としていうとき「真実」と表記するのが一般的であるが、本来は、「信実」という表記であった。

「いのちの水」誌2015年10月号〝信なくば立たず〟より引用。

今から2500年ほども昔から、このように、食が第一、軍備も不可欠ということが当たり前―現代でも―であった時代に、すでに「信」の重要性がこのように言われていることに驚かされる。

 ことに現在の教育やさまざまの大学の研究、科学技術、インターネットの膨大な知識などがはんらんする中で、こんなに古くから言われている「信」のことが念頭にないのが、現在の日本や多くの国々の実態である。

 信なくば立たず―このよく知られた言葉でいう「信」とは何か。

 それは、語源の説明からもわかるが、嘘偽りのないこと―信実なことである。孔子は、その「信」こそ、人間が立ち行くために何よりも重要なことだと見抜いていた。

 いくら食があっても、また軍備を整えても、信なくば、人間は本当に立つことができない。人間同士に不信実がある―嘘があれば到底その関係は立ち行かず、崩れてしまう。一人の人間の魂も同様である。

 現在の日本の政治においても、まったく「信」―信実さがない。安保法制の決議にしても、あまりにも一方的、少数者の存在や意見をふみにじるものであった。

 そして、まず軍備が重要だとして集団的自衛権が行使できるようにしてしまった。そして「食」(経済)の重要性については、株価の報道などにみられるように、毎日毎日休むことなく言われている。

 そうした状況において、「信」が重要だ、何にもまして重要だ、といった意見はマスコミなどでも見た覚えがない。

 人間は、残念なことに、いくら科学技術や、教育、学問が発達しても、「信」ということに関しては、まったく進歩がないのがわかる。

 この「信」の重要性をさらに徹底して述べているのが、聖書である。聖書こそは、最初から最後まで、食糧や軍備などより比較にならない重要性を「信」においている書である。

 孔子が教えたよりはるかに深く、広い意味において「信」の重要性が一貫して語られている。

 しかも、孔子は、人間同士の信であったが、聖書はその人間を創造し、万物をも創造した神への信を第一としている。神への信なくば、神の持つ信実や愛、清いこと、正義への信もない。それらがないということは、不正や汚れたことを認め受け入れることにつながる。

 そこからあらゆる悪事や混乱が生じる。

 人をも万物をも愛をもって創造した神を信じるとき、人をもいかに悪い人であっても、その人がよくなるようにと祈る道が指し示されている。

 神は、その御心にかなった時には、悪人の心をもただちに変えることができるのだと、信じて対することが可能となる。

 人から裏切られ、人間不信に陥ってもなお、そのような人間をも変えることのできる神を信じる道が与えられている。

 そのような信を互いに持つとき、人間が罪深いので罪を犯してもなお、人と人の間にいてくださる神―キリストによって私たちは倒れ、滅びないですむ。神とキリストへの信実、そしてその神に対する信実によって私たちは、立ち上がることができる。

 この原理は、数千年前から、一部の民族には知られていたが、その後の歴史においてその真理の力を証しするように世界に広がった。  今後も、まず神の信実を信じ、そこから希望も、神への愛、神からの愛が与えられていくことは変ることがない。そしてそのような新たな「信」の世界は求めるときに一方的に与えられるのだということ、これもまた、聖書が一貫して語りかけていることである。

 (文 T.YOSHIMURA)