神様の励ましとは

聖書の中から

〇「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。」(詩編16編7節)

〇「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」(ローマ1章12節)

「いのちの水」誌2010年9月号 〝分かち合うために〟より引用。

また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐさめ合う(*)ことができるように祈ってもらいたい。(ローマ15の30~32、口語訳)

パウロのような歴史上で最大の賜物を神から与えられ、その書いたものが聖書として新約聖書の相当部分を占めるほどの人であっても、自分の祈りだけで十分とは決して考えなかった。他者に祈って欲しい、と願うことをまったくしないキリスト者もいる。しかしそれは聖書的なあり方ではない。

祈りという重要な霊的な領域では、無限の深みがあり、そこではだれも自分は十分なのだなどとは言うことはできない。パウロは自分が土の器だと実感していればこそ、その弱く汚れた器に神の賜物を満たしていただきたいとのあつい願いを持っていた。そのために、この引用箇所であるように、悪に打ち勝つ力と奉仕を実行するための守り、そしてローマの信徒たちと共に慰め合うことができるように祈ってほしいと願っているのである。

パウロの心に常にあったのは、自分だけの祈りで終始するというのでなく、祈りの共同体、互いの励まし合いを具体的になす共同体なのであった。

キリスト者ならだれでも持っているものがある。それが福音であり、信仰である。神の言葉である。福音を信じたからこそ、キリスト者となったのであり、福音とは神の言葉であるからである。

それゆえに、それらの目には見えない持ち物を少しでも分かちたいという気持ちはだれにでも生じる。すでに信仰を与えられている人同士が祈りをもって会うことによって、それぞれが与えられている賜物をともに分かち合うことができる。

これは、「祈の友」が生まれた理由でもあった。「祈の友」(*)の集まりは、今から八〇年近く前の、一九三二年に結核で苦しんでいた一人の青年、内田 正規(まさのり)によって始まった。

「病苦を背負わされ、貧苦に閉じ込められ、人には見捨てられ、自分にもまた絶望…こうした涙と呻き苦しみのなかにあるとき、私の身代わりに死んで下さったというキリスト、私が永遠の祝福を受け継ぐために復活されたというキリストの福音は実に驚くべき歓喜の音信(おとずれ)であった。私は初めて真実の愛というものを知った。…」

(一九四〇年 「午後三時の祈り」内田 正規著 15頁)