賛美とは

聖書の中から

〇「どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」(詩編 34編2節) 〇「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」(第一コリント 10章16節)

「いのちの水」誌1999年9月号 〝キリスト教礼拝での讃美歌〟より引用。

キリスト教においては、重要な会にいつも歌を歌うのです。礼拝であっても、クリスマスの集会や人が死んだとき、葬式、結婚式、祈りの会、家を建てるとき等などあらゆるときに歌(讃美歌)を歌います。

 私がキリスト教信仰を持つようになってすぐに読んだ本の一つに、若くして高熱を出してこの世を去った人の記念文集がありました。そこに書かれていた人は、死に瀕したとき、高熱で意識がないような状態であったのに、その口からとぎれとぎれに出てきたのは、讃美歌五二〇番「しずけき川の岸辺を」であったと知って強い印象を受けたことがありました。 それは、そばで看病している両親のこともわからないほどに意識がうすくなっているのに、なおそこから「安し、安し、神によりて安し」という讃美歌の一節が出てきたというのは、いかに讃美歌が深く魂に刻み込まれていたかをしめすものです。

 それは、祈りであり、神の言に次ぐほどのものとなって魂に刻み込まれていたのがうかがえるのです。

 キリスト教における讃美とはたんに楽しいから歌うのでは決してなく、最も苦しいとき、死にかかっている時ですら、出てくるほどのものなのです。

 主イエスも、いよいよこれから捕らわれるという前夜にも、最後の夕食のあとで締めくくりとしてしたのが、讃美を歌うことであったのです。

一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコ十四・26)

 殺される直前においても、なお歌ったのは、神への祈りだからです。祈りをさらに長く引き延ばして祈り続けることが讃美であったのです。だからこそ、主イエスも捕らえられ、殺される直前に讃美の歌を歌ったのです。それはこれから起きるたいへんな事態に対処するための祈りであったからです。神を信じる者なら、祈りはどんなときにもすることが期待されているし、神はその祈りの姿勢を最も喜ばれます。だからこそ、結婚式でも、葬式でも、また新しい家を建てるときも、苦しい時も、感謝と喜びのときもどんなときにも讃美歌を歌うということが生じるのです。