聖書の中から
〇「…希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ 15の13)
「いのちの水」誌2012年05月号〝希望の源としての神〟より引用。
だれでも、未来への希望がある。子どもに大人がよく何になりたいか、と尋ねると野球の選手とか保母さんとかパン屋さんになりたいという。
幼い子どもの希望だけでなく、生きているかぎり私たちは、何らかの未来への希望を持っている。
○○へ行きたい、もっと○○が欲しい、健康が回復してほしい、よい家庭、心の通う友だち、あるいは、いま何らかの病気や悩みを抱えている人は、その苦しみから解放されること…等々、子どもから大人まで、そして病弱な人から健康な人まで、すべてよりよいものを求め、願う希望を持っている。
しかし、そうした希望は、実現できるという保障はなく、願いであり、夢のようなものであることが多い。
このような希望ではなく、必ずかなえられる希望というのを聖書は約束している。すでに、旧約聖書の古い時代、今から3700年ほども昔に、アブラハムは神から呼び出され、あなたは、郷里を捨て、友人、親族から離れて私が示す地に行きなさいと命じられた。
アブラハムは、その遠いところ、全く未知のところへと神の言葉を信じていくことになった。彼は乳と蜜の流れる地と言われるよき土地を与えられると信じて旅立った。
このように、神から与えられる希望は、強い力で迫ってくる。人間が思い描く希望は、夢のようで、実現に至らせる力はなく、さまざまのこの世の力によって壊されていくことが大部分である。
しかし、人間を超えた力を持っておられる、全能の神に由来する希望は、いかにこの世の出来事が起こって妨げようとも、壊れることがない。
それは信仰から生まれる希望である。全能の神を信じない場合にはそうした強い希望は生まれない。
神は無から有を生み出す、それと同じように神は希望の無いところに、それまで全く考えることもなかった希望をも生み出すのである。
アブラハムには、昔からの土地でずっと生活するということしかなかった。しかし、神はそのような彼に、まったく新たな希望、考えたこともない希望を与え、新たな生活へと導かれたのである。
さらに、アブラハムはその後、神からあなたの子孫は夜空の星のようになる、と言われた。神の全能を完全に信じるところまでいっていなかった彼であったが、その神からの言葉は、未来へのともしびとなって彼の希望となり続けた。
そしてその神の約束は、アブラハムだけでなく、その後の子孫にもずっと希望であり続けた。
このように、聖書における希望は、神から来る。全能の神が、あらゆるこの世の妨げをも超えて実現することを示されるゆえに、その希望は必ず実現するという本質を持っている。
この希望は、聖書全体に見られるが、とくに詩篇や預言書においては、いかなる現実の闇や困難をも超えて、神が希望を与えることが記されている。
そうした不滅の希望をさらに完全にしたのがキリストの到来であった。キリストは私たちが心の弱さのゆえにどうにもならない現実をも見据えて、その弱さや醜さを我が身に担って下さった。そこに、その弱い現実から解放されるという希望が生まれた。これは人間の根源にかかわる希望であった。
そのために、十字架は世界中で希望のシンボルとなった。十字架はキリスト教のシンボルと思われているが、それは単なるキリストの教えを表すのではなく、実は大いなる希望を指し示すものなのである。そこに私たち弱いものへの招きがあり、赦しがある。神の愛がある。神の愛こそは、希望の究極的な源だからである。
そうした愛が、地上の生活においてどうしても回復できない私たちの苦しみや悲しみ―それは愛するものの死であり、また人間関係の分裂、また取り返しのつかない罪、自分の病気の耐えがたい苦しみ等々を最終的に解決してくれるものとしての復活が与えられている。
復活こそは、十字架とならんで人間の究極的な希望となっている。死の力、それはあらゆるものをのみこんでいく。どんなに親しい人、愛で結ばれた人間同士も死によって引き裂かれる。深く結びついているほど、魂には深い空洞が生まれる。その回復しがたい傷をいやすもの、それが復活である。
私たちはただ神とキリストを信じるだけで、復活させていただける。霊のからだ、完全なからだとなって、しかも愛の神の御前にて復活させていただき、いっさいの涙や悲しみから永遠に解放される。これは究極的な希望である。
この希望がなかったら、人間がこの世に生きることは次第に希望が壊れ、消えていくしかない。火が一つ消え、また一つ消えていくようなものでしかない。
復活させていただけるという希望こそは、生きることが絶望的な状況であってもなお闇に輝く星のようにさらに強くよみがえってくるのはつぎのような箇所からもわかる。
…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(Ⅱコリント1の8~10)
普通、希望という言葉の内容は、よい生活、楽しく幸いな生活であろう。地位や経済的豊さ、人間関係のよさなどもみなそれである。だから、そうしたものがすべてなくなる死というものは一切の希望がなくなることだと思われている。
しかし、聖書においては、その死ということに直面して最も強い希望が芽を出してくる。それがここに引用した復活への希望である。ただ、神の全能とキリストの愛を信じているだけで、私たちは必ず復活させていただける。キリストの栄光のような姿として。 (フィリピ書3の21)
さらに、希望がまったく消えたと思われるようなとき―主イエスも十字架上で、わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!との深い叫びを出された。
しかし、それでもなおこのように神に向って叫ぶというところに、希望の光が残されていたのがわかる。
人間は肉体を持っているゆえに、そのからだが途方もない苦しみにあったときには耐えられない。考えることもできない。ただ叫び祈るだけとなる。それでも、神は、見放したのでなく、たしかに側におられたゆえに、キリストは復活された。
人間の側でどんなに希望がないように見えても、なお神は求めるものの近くにいてくださるのだという希望がここにある。
こうしたすべての希望は神に由来する。希望の神、と言われているとおりである。
…希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、
聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 (ローマ 15の13)
愛の神、真実な神、正義の神であり、慰めと励ましの神であり、そして希望の神なのである。
信仰こそは、それらの出発点にあるからこそ、喜びも魂の平和も信仰から来る。そして、その信仰によって与えられる聖霊が、望みなきところであっても、希望でみちあふれさせてくださるということを使徒パウロは知っていた。 これは、単なる学問や思索によるのでなく、直接に主からの啓示と聖霊が与えられたことによって、このような確信が与えられていたのである。
(文 T.YOSHIMURA)
聖書の中から
〇「マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。」(コリントの信徒への手紙一16章22~24節)
「いのちの水」誌2008年1月号〝主よ、来てください!〟より引用。
最も平和があって欲しい家庭のなかにも、しばしば苦しい問題が生じることがある。最近もそうした事実を友人から知らされたことがある。
最も身近なところだけに、だれにでも言えないで苦しみと悲しみに打ちひしがれた心になるだろう。どうしてあのような罪を犯すのか、なぜこんなことが生じるのか等々、そうしたおりには、自らの力の弱さも思い知らされる。
そのような状況がどこまでもつのっていくときには、もう生きていく力も希望も失っていく。ことに当事者が神に希望を持つことを信じることができない場合にはそうなっていくことが多い。
主イエスが十二弟子をこの世に遣わしたとき、主は、弟子たちに「汚れた霊に対する権威を授けた。それは汚れた霊を追いだし、あらゆる病気やわずらいをいやすためであった」と聖書にある。そこに時代を超えた深い意味がある。
汚れた霊とは悪の霊である。私たちを苦しめ痛めつけようとする悪の根深い力である。主は私たちのそうした苦しみを御存じであったゆえに、そのような悪の力を根源から除き去ろうとして下さる。
私たちはたしかに今も目には見えない悪あるいは闇の力に苦しめられている。私たちの魂の内部で、ときには苦しい病という形をとって、また家庭のような身近なところで、さらに学校や職場、会社や国家などの組織において、さらには戦争や内乱のようなテロにおいても、問題の根源となっていることは、すべてに共通して、そうした悪の霊、闇の力である。主よ、来て下さい。そして昔と同様に悪の力、闇の力を追いだし、私たちに聖なる霊の力と清めを与えてください。
(文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から
〇「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光を持つ。」(ヨハネ8の12)
「いのちの水」誌2023年2月号〝キリストは世の光・命の光〟より引用。
聖書は、全体として見ても、しばしばわずかなひと言が、あらゆる人間に、またいつ、どんな地域の人においてもあてはまるという驚くべき本質を持っている。
例えば、聖書の最初にあることば―
…神は言われた、「光あれ!」 すると 光があった。
(創世記1の3)
…神は愛なり。
(Ⅰヨハネ4の8) これらは、あらゆる希望の源泉となる。どんなに闇深くとも、神のご意志によれば、ただちに光が存在するようになる。希望が見えてくるという約束であり、預言である。
前途に闇が広がり、進むべき道のない絶望状態であっても、神が光あれ!と言われるなら、光が存在し、それによって道が見えてくる。どんな悪人とされている人でも、神が光あれ!と言われるなら、その人の心に光がともされることを信じることができる。
このことは、私自身21歳の春まで、こうした光などまったく感じられず、そんなものがあるとも思いもよらなかったけれども、ある日一冊のキリスト教の本の立ち読みで永遠の光を知らされた。
それは、主のご意志にかなった時が来て、私の心の深いところに、光あれ!と言われたゆえに、そのような光など、心に思うことも、考えたり他者から言われたこともまったくなかったのに、突然 神の光が心の深いところに射してきて、今日まで56年にわたってその光は消えることがなかった。
一時的にその光が消えていくように感じても、それは少しの間であって、心の方向転換をして主に向って祈るとき、ふたたびその光を感じるようになるのだった。
神は全能であり、無限の深い御計画をもってなされるゆえに、この御言葉の真理はだれにでもあてはまるのであって、神の全能と愛、真実を信じて求めて続けていくならば、不条理なことが自分や身近な人に、また仕事や人間関係で生じても、神は愛であるゆえに、きっと時至れば光を注いで最善にしてくださる、と信じることができる。
そして神は愛であるゆえに、神が創造された自然もみな、木々の一つ一つ、その葉や花の色、形…等々、また幹の模様や樹形…等々も神の愛が込められていることになる。
それゆえ、それらの姿そのものにおいても、神の愛のひとしずくがそこに落とされ、また神の息吹の愛の一吹きを感じることができるように導いてくださる。
(文 T.YOSHIMURA)

「いのちの水」誌2008年11月号〝希望の神―旧約聖書における希望〟より引用。
こうした状況に対して、聖書はどのように私たちに語りかけているだろうか。
聖書の巻頭に、神が天地を創造されたときの状況が記されている。
… 地は混沌であって、闇が深遠の面にあった。
神は言われた。
「光あれ!」
こうして光があった。
闇と混沌、それは希望が全くないという状況である。そこに光あれ!とのメッセージを投げかける神によって光が生じた。このことは、どんな深い闇があり、どうやって生きていけばよいのか分からないときにあっても、前途を指し示す光が与えられるということ、神にもとづく希望があるということを示している。
聖書はその巻頭において、強力な希望のメッセージから始まっているのである。
そして最初に創造された兄弟という人間関係はカインとアベルであったが、兄のカインは妬みから弟を殺してしまう。この悲劇的な結末は、彼らの両親であるアダムとエバが、神の言葉に従わずに背いて神の創造されて理想的な場(エデンの園)を追いだされたゆえであった。楽園を追放されたがゆえに彼らの家庭も楽園とは正反対の憎しみ、殺意が生じてしまったのである。
そのような暗闇にみずから落ち込んでいったカイン、それは万能と正義の神によってただちに滅ぼされると予想されたし、カイン自身もそのように思っていた。
…神が私をここから追放すれば、私は地上をさまよう者となってしまう。そうすれば、私に出会う者はだれでも私を殺してしまうだろう。…
しかし、意外なことに、そのようなカインの言葉に対して、神は次のように言われた。
…カインを殺す者は、だれでも七倍の復讐を受けるであろう。…
そしてカインに出会う者が誰も彼を殺すことのないように、カインに特別なしるしを付けた、と記されている。(創世記四章)
このような古い記述は現代の私たちとは何の関係もないように思われがちである。単なる古代文書の話し、神話のようなものだとしか受け取らない人も多い。しかし、聖書の記述は一見そうした私たちと関係のないように見えても実は深く人間の本質とかかわることが随所で記されている。
ここでも、どんな重い罪を犯してもなお神からは見捨てられていないという希望が記されているのである。旧約聖書の神は裁きの神、正義の神だというイメージが強い。たしかにそのように思われる箇所も多く見られる。
しかし、聖書の最初にある書の初めの部分にすでにこのようにそうした裁きの神というイメージとは大きく異なる姿がある。ここではすでに、罪を犯した者を見つめ続け、悔い改めを待って下さる神の本質がすでに記されているのに驚かされる。
カインにはしるしが付けられた。それは裁くためのしるしでなく、殺されないための守りのしるしであった。私たちも罪を犯し、他人に深い心の傷を負わせてしまうことがあるだろう。自分では気づかなくともそのようなことはしばしばあるだろう。しかし、それがあるから裁かれてしまうなら人間はみな滅ぼされてしまうだろう。
神は、そのような人間にいわばしるしを付けて見守っておられるということなのである。人間すべてにいわばしるしが付けられていて、悔い改めを待たれているということが言える。
希望を与える神の姿は、旧約聖書で最も重要な人物の一人である、アブラハムにもはっきりと示されている。
神は未知のところへ行くようにと指し示すお方である。そしてそこに祝福があると約束される。このような記事を読むときに、過去の特定の人だけにあてはまると考えがちである。しかし、過去の特定の信仰の人に生じたこと、約束されたことは、私たちも信仰を与えられて生きるときには、本質的には同様の約束を受けるということが暗示されている。
希望とは将来のこと、未来について言われることである。そして聖書の記述は未来への祝福がつねに約束されているゆえに、確固たる「希望」を内に秘めた内容となっている。
…主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となる。
(創世記十二章より)
このことは、主イエスの山上での教えの最初にある次の言葉と関連している。
ああ、幸いだ。心の貧しい人たちは。
神の国はその人たちのものだからである。(マタイ五・3)
神の国が与えられるということにまさる祝福はない。そのような最大の祝福が与えられるということは、その祝福が基となって当然外に向かっても流れていくということを意味する。自分だけにしか役だたないことは真の祝福ではないからである。 そう考えると分かるように、アブラハムがはるかな昔に祝福の約束を受けたことは、実はキリスト者すべてに対するものであったのである。
(文 T.YOSHIMURA)

