愛について

○「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ3章23~25節) 

「いのちの水」誌2006年7月号〝赦しと導きの神〟より引用

自分の言動の結果、こんな困ったことになった、大きな罪を犯した、迷惑をかけた、など考えているとますます心は萎縮していく。
こうした人間の心の世界に、神は赦しという世界があるのを教えて下さった。そうしたすべての失敗や罪、不適切な言動など、すべてが赦されるのだ、ということ、しかもそれはただ、神を仰ぐだけ、キリストの十字架を仰ぐだけでよい、キリストが十字架にかかったのはそうした私たちすべての日常的な罪のゆえなのだと信じて十字架を仰ぐとき、私たちは、キリストがその十字架の上から、「もうそのことはいいのだ、赦してあげよう」という静かな細い声を聞くことができる。
これこそ福音である。万人にとっての喜びのおとずれである。
そしてただ、赦されただけで終わることなく、そこから新たなところへと導いて下さるのが、聖書で示されている神であり、キリストである。
人間はこうした愛を持たないゆえに、しばしば赦さない。責めて、攻撃し、あるいは見下すことが多い。しかし神は愛であるゆえに、どんな大きな失敗ですらも赦し、慈しみをもって近づいて下さる。
そして赦された者は、神の愛とは何であるかを知らされる。そしてその愛を知った者は、おのずから前進しようという気持ちになる。そのような愛を受けたときには、同時に前進の力が与えられる。
罪のことをずっと思い続けていると、心身は消耗して弱ってしまうが、赦された魂は、新たな力を与えられる。
(文 T.YOSHIMURA)

○「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。」 (イザヤ書49の15~16)

「いのちの水」誌2012年5月号〝手のひらに刻み付ける愛〟より引用

人間の本当の不幸とは、病気や事故、あるいは貧困ですらない。それは神の言葉を知らないことである。それゆえにこのように繰り返し強調して言われている。

けれども、このように刻みつけるということは、人間の側のなすべきことで終わるのでない。

神がその愛のゆえ、信じる者を決して忘れないことをあらわす象徴的なこととして、その手のひらに刻みつけてまでして覚えて下さるという。

現代の人も、何かを忘れないために、手のひらに書いておくという場合がある。

神が愛するものをどうしても忘れることがないようにと、手のひらに刻みつけるという。

大多数の日本人は、残念なことに神の愛どころか唯一の神がおられることすら信じない状態であるが、このイザヤ書の著者は、神がその愛するものを覚えて手のひらに刻むその愛をはっきりと感じ取った。それは特別に神の愛を啓示された体験であったゆえに、このように記したのである。(文 T.YOSHIMURA)