「いのちの水」誌2017年3月号〝信仰による救い、祈り、愛、癒し〟より引用。
〇「…イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、罪まで赦すこの人は、いったい何ものだろう、と考え始めた。
イエスは女に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」
(罪深い女に対して、ルカ7の50)
○「…一人のらい病人が、イエスに近寄って、ひれ伏して「主よ、御心ならば、私を清くすることができます。」と言った。
イエスが手を差し伸べて、 その人に触れ、「清くなれ!」といわれると、たちまちらい病は清くされた。」(マタイ8の2~3)
ここでも、らい病人のイエスに対する信仰に答えてイエスが御手をのべて触れ、清めを与えたー救いを与えられた。
○「…イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」」(12年間の出血の病気をわずらっていた女性に、同8の48)
○「…イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」」(らい病の人に、ルカ17の19)
○「…そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」」(盲人の人に、ルカ18の42)
周囲の人たちの信仰によって、別の人の罪が赦されるということも記されている。
○「…人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。 」(マタイ福音書9の1~2)
マルコ福音書2章1節では、中風を患う人を、屋根を破ってイエスのところにつり下ろしたことが書かれている。この病人を連れてきた人たちは何とかして中風の人の起き上がることもできない苦しみを治してあげたいという心があったのがうかがえる。
それとともに、イエスに対する非常な信頼があった。中風の人に対する特別な愛と、イエスに対する絶対的な信仰が無ければできないことである。ここでは信仰と愛が一つになっている。
イエスは、中風の人を多くの労を費やし、さらには、多くの人がいてイエスの前に病人を運んでいくことができないことを知って、屋根をはがして病人を屋根から吊り下ろすーという考えられないような行動にでた。
そんなことをすれば、その家の人から、また周囲にいる人たちから、きつい非難を受けるし、壊した屋根を弁償させられるしー等々を考えるならそんなことはできない。
中風の人をそんなにまでして治してもらいたいーと願う幾人かの人たちの病人への限りない愛とイエスへの絶対的信頼がここではきわだっている。 二人三人私の名によって集まるところには私もいるーこの人々の非常な熱心は、イエスを神の力を持つお方であると信じての行動だった。それはイエスの本質(名)によって心を合わせたといえよう。それゆえに、イエスは彼らの行動とともにいて、非常識とおもわれるところに道を開かれたのだった。人への純粋な愛ーこれは神からくるーと神を幼な子のように絶対的に信頼する心は、本来なら越えがたい大きな壁をも乗り越えていく。
(文:T.YOSHIMURA)

聖書の中から
〇「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章6~7節)
〇「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」(創世記17章5節)
〇「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」(ローマ4章13節)
「いのちの水」誌2002年7月号〝備えられる神〟より引用。
旧約聖書で最も重要な人物の一人がアブラハムである。アブラハムは旧約聖書を教典とするユダヤ教においても、モーセとともに最も重要な人物であるが、イスラム教にとっても、彼らの信仰の模範がアブラハムなのであって、そういう点からみると、現在も全世界にその影響を及ぼしているほどに重要な人物なのである。
そのような特別に神に召された人物であるアブラハムについては旧約聖書に詳しく記されていて、後世の人間がどのようにアブラハムの信仰から学ぶべきかが浮かび上がってくるようになっている。
ここでは彼に生じた出来事のうち、とくに備えをされる神ということについて見てみよう。
アブラハムの生涯にはさまざまのことが生じた。それらはつねに何らかの試練でもあった。まず、生まれ故郷を離れて、遠い未知の国、神が指し示す国に行けという神の言葉に従うことがそうしたさまざまの試練の出発点となっている。
ようやくたどり着いた目的地において生活していたが、食料がなくなり、その地では生きていけない状態となった。そのために、遠いエジプトまで行き、そこでは自分の命の安全が保証されないという恐れのために、妻を妹と欺いて、エジプト王に妻を差し出して、窮地を逃れようとした。そのようなことをすれば、神の約束などすべて無にしてしまうことであったので、神みずからがアブラハムの弱さを顧みてその困難から救い出したのであった。
また、他のところから攻めてきた連合軍に自分の甥であったロトとその親族が連れ去られてしまったが、その連合軍を追跡して戦いとなり、彼らを取り戻したこともあった。
しかし、そのロトの住むソドムとゴモラの町が滅びることを知り、その町のために必死でとりなしの祈りをささげた。
さらに、家庭の問題で悩み、ハガルを追い出したこともあった。
自分たちが老年になるまで、子供が与えられず、神がかつてあなたの子孫は空の星のようになるとの約束がいくら待っても実現されないため、全くあきらめてしまっていた。
しかし、驚くべきことに神の約束は実現してすでに老年になっていたアブラハム夫妻に一人子が与えられた。
これは、神の御計画が実現するまでに、待つということがいかに重要であるかを示している出来事であった。そうした過程を通じて、アブラハムは、自分の弱さと限界、神の大いなる導きを学んできた。
アブラハムが受ける神からの祝福は、彼ら自身が祝福の基となり、生まれる子供も星のように増え広がるということであった。
しかしその一人子を神に捧げよとの命令が神からあった。老年になってやっと与えられた子供を神に犠牲の動物のように捧げるなどということがどうして神からの命令なのか、アブラハムは驚き、苦しみつつ神からの命令をどうすべきか夜通し苦しみ続けたであろう。
しかしそうした長い苦しみののちに、まぎれもない神の言葉であることを思い、アブラハムはその神の言葉に従って、一人息子のイサクを連れて、神から示された土地へと旅立っていった。
しかし、それほど大きな出来事であって、妻のサラも自分の子供が犠牲の動物のように捧げられようとしていることに対してどのように言ったのか、あるいは、アブラハムは妻にはこのことを話さなかったのか、それは全く記されてはいない。
妻にはどう言って、イサクを連れ、従者も連れて遠い旅に出ることを話したのだろうか。
途中、三日もかかるような遠いところであった。そこまでの行程でアブラハムと子供との会話も記されていない。ただ、神の謎のような言葉の意味を深く思いつつ、祈りつつ歩いて行ったのであろう。
神はこのように、全く人間には不可解なこと、しかも最も大切なものを奪うというようなことをされることがある。
神が示した土地にようやく着いて、アブラハムがいよいよイサクを捧げようとしたそのときに、神が天使を通して備えられた羊が与えられた。
この大いなる出来事のゆえに、アブラハムはそのことを場所に名前を付けることによって、記念した。
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり」と言っている。(創世記二十二・14)
これは単にアブラハムに生じたことでなく、以後の無数の神を信じて生きる人々に対しての大きな約束となったのであった。 アブラハムの場合はぎりぎりのところで神の奇跡がなされて、備えがあったのがわかる。しかし実際には、そのような大事なものを神が取り去ることも多くある。そのようなことを通して、神は祝福を与えられる。その大切なものが取り去られることがあっても、その場合には必ず別のものが「備え」として与えられる。(文:T.YOSHIMURA)

聖書の中から
○「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13章13節)
「いのちの水」誌2019年3月号〝神に出会い、神に語りかけられ、そのことを証していく〟より引用。
信仰・希望・愛、これは広く知られている。信仰と訳された言葉(ギリシャ語でピスティス pistis)は、真実という意味がもとにあるゆえ、この「信仰」とは、神の真実をも含むものである。
神の真実は永遠であり、その神の真実や神の愛ゆえに、私たちの神にかかわる希望もまた永遠である。そしてそれらすべてを包むのが神の愛である。
この信仰・希望・愛という三つの重要なこと、その出発点に、最初にあげた三つのことが深く結びついている。
神に出会い、その神からの語りかけを聞く、そして力を与えられ、そのことを証ししていくーその過程で、神の真実、神への信仰、希望がさらに新たに体験され、いかに神が愛に満ちた存在であるかを知らされていく。
こうした三つの世界へと私たちはみな招かれている。
大空の澄み渡る青、ときに白く、また赤く燃える雲、また野山の木々に吹きわたる風による音楽、そして夜の星たちの輝きーそれらすべてもこうした三つの世界へと日々、招くものとなっている。(文:T.YOSHIMURA)

