聖書の中から
〇「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。 「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」」(創世記2章15~17節)
〇「主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。」(創世記7章1~5節)
「いのちの水」誌2003年8月号〝信仰とは何か(旧約聖書の信仰)〟より引用。
聖書全体が信仰とは何かを語っている書物であり、それが実に多様な内容をもっているからこそ、聖書は小さな字でぎっしりと印刷されても、二千ページにもなる。そのどこをとっても、信仰のある側面が記されているといっても過言ではない。そのような豊富な内容からここでは一部を取り出して見たい。
聖書の最初の書物は、創世記である。ここには、信仰がいかなるものか、とくに一部の個人の生き方をたどることによって明らかにされている。
他方では信仰の道がいかに誤りやすいかも示している。聖書の最初の書物がそのような、信仰の道からそれていくことの危険さをまず書いてあることに、気付かされる。
アダムと信仰ということは、ほとんど言われることがない。アダムといえば、人類最初の人間、罪を犯して禁じられた木の実を食べて、エデンの園から追い出されたことしか印象にないという人も多い。
しかし、アダムは神から直接に創造されたのであり、神のことは信仰というより、何よりも身近な存在であった。神は、人間が語るように親しく、アダムに語りかけている。「エデンの園の他のすべての木から取って食べてよい。しかし、中央の木の実は決して食べてはならない。必ず死ぬのだから」と言われたり、神が女であるエバを創造してアダムのところに連れてきたとも書かれている。こうした密接な関係があったのに、それでもなお、アダムは、神に従い続けることができなかった。
ここに、信仰をもって生活することにおいて、いかに正しい道を歩き続けることが困難であるかがはっきりと示されている。聖書の最初にこのように、信仰の困難が記されていることは、驚くべきこととは言えない。それ以後のイスラエルの民の歴史がまさにそうであったからである。
アダムについで、聖書を読むものに印象的であるのは、神とともに歩んで、神がとられていなくなったというエノクの記事である。信仰によってこのように、死が克服されるということがこのエノクの記事で暗示されている。
ノアについては、その「はこ舟」のことでとてもよく知られている。周りの人がすべて、神の裁きなどないと思い込み、間違った生活にはまり込んでいた。そのただなかで、ノアは主の前に恵みを得ることができた。そして神とともに歩み、神への信仰をもって生きた。そこから全地への滅びから逃れることになった。
神とともに歩むとは、信仰の姿をよく表している。単に信じているということでなく、日々の生活のなかで、いつも神の言葉を聞き、神の示しを受けて生きることである。
そのようなノアであったからこそ、大洪水で一年もの長い間、「はこ舟」にて漂流していたが、その後ようやく水が引き始め、ついに陸地が現れ、ノアたちが陸地に降り立ったとき、最初になしたことは、主のために感謝しての礼拝であった。 しかし、そのようなノアであったが、生活が安定してきたときには、ぶどう酒に酔って裸で寝ていたところを子供に目撃されるとか晩年になって信仰にゆるみが生じてきたことが記されている。
こうした信仰の生活が途中で揺らぐことがあるのは、ノアよりずっと後の人間であるが、ダビデにおいてとくにはっきりと示されている。子供のときから神を信じ、武力や詩作、音楽などいろいろの方面に恵まれていたダビデは、さまざまの困難に出会ってもつねに神への信仰を中心として生きてきた。自分が仕えていたサウル王に対しても、王がどんなに理不尽な攻撃をしてきても、なお、正しく信仰の道からはずれることはなかった。しかし、生活が安定してきたとき、重い罪を犯すことになった。それは取り返しのつかない大きい問題を生んだ。 旧約聖書において、決定的に信仰の重要性を示したのが、アブラハムである。アブラハム以前の、アダム、エノクやノアの場合と同様に、信仰は彼らが求めたというより、神から与えられている。
(文 T.YOSHIMURA)
「いのちの水」誌2010年4月号〝人の言葉、神の言―詩篇 第十二編〟より引用。
主よ、お救いください。(*)
慈しみに生きる人は絶え(**)
人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。(***)(二節)
人は友に向かって偽りを言い
滑らかな唇、二心をもって話します。
主よ、すべてを滅ぼしてください 滑らかな唇と威張って語る舌を。
彼らは言います。
「舌によって力を振るおう。
自分の唇は自分のためだ。
わたしたちに主人などはいない。」
(*)主よ、お助け下さい、この言葉は、ヘブル語では、ホーシーアー ヤハウェ である。 ホーシーアーとは、新約聖書で、イエスがエルサレムに入っていくときに、民衆が「ホサナ、ホサナ」といって歓迎したときの言葉も、これと同じで、ホーシーアー ナー(今、救ってください!)→ホサナ となった。ホサナももともとは、このように、切実な救いを求める叫びであったが、後に意味が変化して、歓迎の叫びのようにも使われるようになった。
(**)新共同訳で「慈しみに生きる人」とあるのは、ヘブル語で ハーシィド で、これは ヘセド(慈しみ、真実な愛)と語源的に共通しているので、新共同訳では、「慈しみに生きる人」と訳されている。口語訳では「神を敬う人」、新改訳では、「聖徒」などと訳されている。英語訳では、loyal (忠実な)とか、godly man(神を敬う人)などと訳されている。
(***)「信仰のある人」とは、 エームーン で、アーメンとか、エメス(真実)と語源的には同じ言葉。口語訳では、「忠信な者」、新改訳では「誠実な人」などと訳されている。
ここで言われているのは、人間の言葉がいかにまちがっているか、悪意や不真実に満ちているか、という深い苦しみの経験である。親しい者同士であっても、表面だけはとりつくろって聞こえのよい言葉を使うが、心の中では、深い悪意を持っている。
ここで言われているのは、「信仰のある人がなくなった」というより、注で書いた他の訳のように、真実な心をもって語る人、人と交わる人がいない、というこの世の実体についても深い悲しみである。
主イエスも、人を汚すのは口から入る食物でなく、口から出る言葉である、と言われた。不真実の心から出た言葉は、それを聞く人の心をも汚す、害悪を与えるというのである。
漢字の語源辞典によると、「信」という漢字もその意味は、 人偏に言葉 で、その語る言葉と、その人が一致している、すなわち真実な状態を指すとされている。
言葉の不真実、それはすでに人間の最初のときから始まっていた。アダムは、エバの誘惑に負けて、神から食べてはいけない、といわれていた木の実を食べてしまった。それが発覚しても、自分の罪を認めようとせず、他人のせいにしようとした。
この詩は「人の言葉と神の言葉」ということがテーマとなっている。
この二つのことの対比を言っている、そこに集中した詩である。
人間の言葉と神の言葉というものがどれだけ違うかということを、この詩人は自分の経験からこれだけの短い内容に圧縮している。
この詩は、まず「主よ、お救いください。」と苦しい叫びから始まっている。だいたい旧約聖書の詩というものは、普通の日本の和歌や短歌と非常に違うのは、普通の詩の場合は単に山の桜や風に触れて趣があるとか、好きな人がいるとかいうようなことで歌を作ることが多く、生きるか死ぬかというように追い詰められた状況からの作品というのはごく少数であろう。
金と余暇が十分にあるようような貴族的な生活をしている人たちが作ったようなものが多い。けれども聖書の詩というものは、全くそれとは違っている。敵に追いつめられ迫害されたり、人間からの憎しみや悪意による苦しみ、また病気や貧しさなど生活の苦しみのさなかにあるなどのために、いますぐに助けが欲しいという人たちによるものが大部分である。
だから、どうしようもない苦しい状況の人が詩篇を読むと、すぐに分かるということがある。苦しい経験が全くないという人にはなかなか分からない。実際のところ、本当に苦しくなったらいろんな細々したことはどうでもよくなり、とにかく助けてくださいと言うしかない。
そのような人生の危機的な状況は誰もが予想していないときに来る。今非常に元気であっても、いつ苦しくて助けてくださいという時が来るか分からない。
突然の交通事故にしても、脳卒中の重症、ガンにしても、今自分は大丈夫だと思ってもいつ来るか分からない。そういうことのためにも、詩篇を学んでおくことは大事なことだと思う。
この詩人の場合は、特に人間の言葉によっていろいろと苦しめられていたことが分かる。わたしがずっと前に夜間の高等学校に勤めていたときにも、暴力をふるっていた生徒たちを、先生は黙って注意しなかったからとてもひどい状態であった。わたしはその激しい暴力や破壊行為のただなかに、赴任したとき、ほかの教師が黙認していた暴力を何とかして止めさせようとし始めたが、彼らはわたしに集中的に攻撃してくるようになった。
その後さまざまの困難なことが生じたが、神を信じてとった決断が不思議ないきさつを経て半年足らずの間に、解決に向かって言った。そのような混乱のさ中で、ある一人の生徒の言葉を今でも思い出す。「殴ったりする暴力で受けた傷はすぐに治るが、言葉の暴力があるんだ」と大声で怒鳴ったのである。
その言葉の暴力を俺らは受けてきたんやと。その生徒たちはいわゆる部落問題で差別を受けてきたのである。確かに殴ったりたたいたりすることは、割合すぐに忘れる。
ところが、ある言葉が心に突き刺さったら、それを抜こうとしても抜けないで、ずっとある種の痛みや憎しみのようなものになってずっと残ることがある。このごろのいじめ問題も単に殴る蹴る以上に、言葉でまず傷つけることも多いと思う。
わたしの知っている人も、中学の初め頃に、ある短い侮辱するような言葉を言われたがためにそれから学校に行けなくなってしまい、その後も学校を卒業していないから就職もできず、結婚もできなくなり、家で空しく過ごすというように、生涯が変わってしまったのである。
仕事で失敗しても、今の社会では周りの人がそれに対して殴ったり蹴ったりはしないが、何か冷たい言葉を投げつけられることでいたたまれなくなるということもある。
このように言葉というのは、時によっては大きい力を持って、人間が生きる希望すらなくしてしまうことがある。
いろいろな害のある言葉とともに、害のないように思われている言葉でも、たくさん良くない言葉がある。それの代表的なものがテレビの視聴率をあげるためだけのような番組からあふれている言葉であろう。
テレビは良い影響よりもはるかに悪い影響を及ぼし続けていると考えられる。
またさまざまの週刊誌、漫画雑誌などというものも、知る必要の全くない単なる好奇心をそそるような内容が多く、当然、そこには悪い言葉が多く、そういう悪い言葉で商売しているというところがある。
昔は新聞もテレビも週刊誌もなかったのであるが、そのような時代の人間の心の方がまだ素直で、他の人に優しかったというところがある。
そういう言葉の特徴は、二心、要するに真実がないということである。真実の言葉は何か心を動かすものがある。新聞も数十頁もあるし、テレビも一日中放送しているが、それらの大多数の番組は、見て心が感動受けるという番組は本当に少ないといえよう。それらは一時の楽しみや気晴らし、あるいは現代の社会を知るという点では役に立つこともあるであろうが、苦しみのただ中にある心が本当に深い慰めを受けることはごく少ないであろう。
二節にある「信仰のある人」というのは「真実」と訳されている言葉で、信仰というものは真実ということが分かる。言葉に嘘がある。 言うことが思っていることと違う、そういう状態がたくさんあるということを言っている。それからさらに五節では、その悪しき言葉の力で上に立とうと言う人もたくさんいる。。
(文 T.YOSHIMURA)
聖書の中から
〇「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3の16~17)
〇「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6の35)
〇「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」(ヨハネ7の38~39)
「いのちの水」誌2012年2月号〝私たちへの呼びかけ― ヨハネの福音書の特質から―〟より引用。
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書がある。そのなかで、ヨハネ福音書はほかの三つとは異なる特質がある。ここでは、その一つを私たちへの直接のメッセージという観点から見てみたい。
「信じる」という言葉(動詞)の新約聖書における原語(ギリシャ語)は、ピステューオー pisteuo である。この言葉は、どのように新約聖書のさまざまの書で使われているだろうか。
コンピュータでそれを調べると意外なことがわかる。
ヨハネ福音書 98回、、マルコ福音書14回、マタイ 11回、ルカ 9回。ローマ書21回。
これを見れば、ヨハネ福音書が断然多い。同じ福音書といっても、マタイ、マルコ、ルカなどよりはるかに多い。
ヨハネ福音書がほかの福音書以上に、「信じる」という動詞の形を―「信仰」という名詞形でなく(*)―特に重視しているのがこの言葉の面でもはっきりとうかがえる。
(*)「信仰」という名詞形は、パウロが圧倒的に多く用いており、ローマ、コリント、ガラテヤの三書だけで 76回も使われている。信仰によって義とされる(救われる)という、いわば 法則として多く語られているからである。
それに対して、意外なことにヨハネ福音書では、「信仰」という名詞形は、一度も使われていないのであって、パウロの使い方と際立った対照をなしている。ヨハネ福音書では、すべて「信じる」という動詞の形で用いられている。
その理由として考えられるのは、マタイ、マルコ、ルカの福音書が、イエスの教えとその行動を記すことを中心としているのに対して、ヨハネ福音書は、神(キリスト)から、この福音書を読む人々に直接に語りかける内容を主体としているからだと言えよう。
例えば、「神とキリストを信じなさい。 信じるなら永遠の命が与えられる。」という言葉について言えば、この言葉を繰り返し、当時の人たちに語りかけるだけでなく、以後のあらゆる人たち、そして現代の私たちへのメッセージとして語り続けていると受け止めることができる。
それは、マルタとの会話でもその特質がわかる。
マルタは、当時のファリサイ派の人たちのように、世の終わりのときに復活することは知っていると答えた。しかし、主イエスは、それを訂正するかのように、「私を今信じるなら、それだけで今、永遠の命を与えられ、死なない者と変えられる。死んでも生きる」と言われた。そしてその真理を語ったあと、「あなたはそれを信じるか…」と問いかけられた。
これは、単にマルタという昔の女性に問いかけた言葉でない。それは世界の国々のあらゆる人たちに語りかける生きた言葉なのである。
このように、動詞の形を多く用いることで、私たちへの呼びかけ、メッセージというニュアンスをたたえたものとなる。
(文 T.YOSHIMURA)
「いのちの水」誌2002年6月号〝求めよ、探せよ、門をたたけ〟より引用。
求めよ。そうすれば、与えられる。
探せ。そうすれば、見つかる。
門をたたけ。そうすれば、開かれる。(マタイ福音書七・7)
これは聖書のなかでも最も有名な言葉のうちの一つであろう。そしてほとんどの人はこの言葉の深い意味に感じないままで、忘れていくだろう。
求めていく意思の重要性をこれはきわめて簡潔に述べている。しかもそれは人間にでなく、何よりも神に求めていく姿勢の重要性である。神を信じて求め続ける心は必ず報いられるという約束がこの言葉なのである。
求めたら与えられるといっても、自分が求めているものそれ自体が与えられるとは限らない。例えば、ある病気になったとする。だれでも病気の苦しみと痛みはひどくなるほど耐え難いものがある。それを必死でいやされるように祈っても、病気がなおらないこともあり得る。ついに病気がいやされないまま、死に至ったキリスト者ももちろん無数にいる。
それなのに、なぜこの言葉はかわらぬ力をもって過去二千年の間、人々を惹きつけてきたのだろうか。
それは、神の万能を心から信じ、そこに信頼し、その神に向かって切実に求める心は、神の国に属する何かが必ず与えられるのを実感するからである。たとえ愛するものが祈り空しく若くして召されたとしても、たとえ大きな誤解を親しい者から受け続けているとしても、そのために祈り続けるならば、必ず神の国が与えられる。聖霊のいぶきを受けることができる。そしてそこから、神の国を遠望するかのように、見ることを許されるようになる。
求めているものが与えられないという現実によって、神は求める者のまなざしが、もなおも、遠く、なおも高く引き上げられていくようにと導いていかれる。神に求めよ、そうすれば霊的な視力がますます遠くまでのびていく、深まっていくという恵みが与えられるのである。主はそのような意味でも私たちに約束されている。
まず神に向かって求める心が必要である。そしてそれから具体的に探し、門をたたかねばならない。真理を欲しいという切実な求める心が必要である。ただ求める気持ちだけではいけない。それを理性を用いても、また実行によっても探して行かねばならない。また、じっとしていては開かれない。人間も事柄も、事件も門をたたいていかねばならない。具体的にある人間のところを訪問して門をたたく、また文書の類、書物などでも探す。求めるだけでなく、探さねばならない。
求めよという呼びかけに私たちは神に求めるまなざしを向ける。そしてそこから神の励ましを受けるとき、探していく、それは同じ苦しみを持つ友であるかも知れない、同じように神を信じる友であり、また彼らの賜物を分かち与えてもらうことであるかも知れない。ほかの人にも祈ってほしいと求めること、それは祈ってくれる人を探すことであり、ともに祈ることによって、開かない扉をたたくことである。ともに祈ることは、「二人、三人主の名によって集まるところには、主がともにいる」という約束の通り、そこに主がいて下さるゆえに、一人では開かない扉も開くのである。
門をたたけ、ともに祈りによって開かない門をたたこう。
探せ、自分だけでは探せないところを他のひとの助けによって、探そう。苦しむ人への助けの道は、手段はどこにあるのか、一人で考えても分からないことがある、そんなとき、ともに祈ってその道を探そうとするとき、主が与えて下さることがある。
この世は、神にむかって求め、その神へのまなざしを持ちつつ、この地上の生活で探し続け、門をたたき続けることで成っている。伝道も同様である。求める人はどこにいるのか、探し求める気持ちをもっているとき、神はそのような求める人を近くに招き寄せてくださる。また、固い心になった人をも、動かないような困難な状況に直面しても、不思議な力が働いて、それが開いていく。
主イエスご自身も、この典型であられた。世を徹しての祈り、それは神に求めることであった。激しく求め続けることであった。そして自分に従う者たちを探された。本当に福音を必要とするもの、失われた羊をどこまでも探し続けられた。それはつぎのよく知られた箇所に見られる。
あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。(ルカ福音書十五・4~6)
主イエスは形式や権力、あるいは伝統や習慣で縛られていた、当時の信仰のあり方に、神の力をもってその扉をたたいた。すると、それまで決して開かないと思われていた新しい命の信仰の世界へと扉が開いたのであった。 今日の私たちはその主イエスが開いてくださった門から導き入れられ、主の平安を知らされた者なのである。
(文 T.YOSHIMURA)

