(299)どんな人間でも、どんな状態でも、人は神さまに必要とされている、大事にされている。
聖書を読んでそう気づかされたとき、「生きていてほんとうによかった!」と思いました。
(「ことばの雫」星野富弘著100頁 いのちのことば社)
(300)私も若いときには、外来診療や患者の回診や注射、多くの検査などと忙しい業務で走り回っていた自分を反省する。忙しいから患者さんとの会話が短いのもやむを得ないと割り切って考えていた。
ところが、医師としての経験を積むにつれ、患者さんや家族との会話こそは、患者さんや家族にとっての一番大切な薬だということを次第に強く学ばされるようになった。
(「出会いに学び、老いに成長する」150頁 日野原重明著 講談社)
○人間は互いに心の交わりを求める。愛のこもった会話は魂にとっての大切な薬となるというのは、医者や患者に限らず、すべての人間にあてはまるだろう。
忙しい医者にこうしたよき会話を期待することは難しい。しかし私たちには魂の医者というべき愛の神、キリストがいて下さる。私たちが主と結びついていようとするなら、神もキリストも私たちの内に留まって下さるという約束がある。(ヨハネ十四・23)
私たちはそのうちなる神に語りかけ、神からの語りかけを受けるとき、最もよい薬をいただくことになる。
神との魂の語り合いを十分に持てないときでも、神の創造された夜空の星や青い空や雲、そして身の回りのささやかな植物たちを見つめるときにもそこから私たちに語りかけるものを感じることで、それもよき薬になる。
(301)「主よ、彼らをいやしたのは、薬草や塗り薬ではなく、すべてをいやすあなたの言葉であった。」(旧約聖書続編・知恵の書十六・12)
〇病気の苦しみや痛みにさいなまれるとき、何とかして少しでもこの苦しみを和らげる薬を、治療をと願うのはだれにとっても同じである。そしてそのいやしが与えられたときには大きな喜びがある。しかしなお、その後にも依然として残るのは、心の問題、悩みであって、それはどんな薬も治療もどうすることもできない。そのような最も奥深い心の苦しみをいやすのが、神の言葉であり、その背後にある神の愛である。
著作家のことば:
…これから後、あなたの生活は、「祈り願い、受け取り、与えること」であり、考えることや行いにおいてもひたすら単純さを目ざすことになる。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために・下」 11月2日の項より)
○神に祈り、神より受け、神から受けた愛をもって与える。 この三つのことからなる単純な生活が私たちの最終的な生き方となるという。新約聖書にはそのことがすでにはっきりと記されている。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛せよ。隣人を自分のように愛せよ。(マルコ福音書十二・30~31)
求めよ、そうすれば聖霊が与えられる。(ルカ福音書十一章9~11参照)
人間の生き方は実にいろいろとあるようにみえる。けれども、究極的な生き方はヒルティがのべているように、とても単純なものだと言える。私たちの現実は弱く、あるべき姿にはるかに遠い。しかし、そのような私たちができることは、神を信じて、その神がもっているあらゆる豊かさ、聖霊を少しでも分かち与えていただくことである。そしてその与えられたものを他者に分かつことなのだという。
(文:T.YOSHIMURA)

