心に残る言葉(書物)

著作家のことば

(118)聖書と活けるキリスト
 聖書は大である。しかし活けるキリストは聖書よりも大である。我らがもし聖書を学んでキリストに接することがなかったら、われらの目的を達したと言うことはできない。聖書は過去における活けるキリストの行動の記録である。

 われらは今日キリストの霊をうけて、新たに聖書を作るべきなのである。古き聖書を読んで新しき聖書を作らない者は聖書を正当に解釈した者ではない。聖書はなお未完の書である。それゆえわれらは、聖書にその最後の章の材料を提供すべきなのである。(内村鑑三「聖書之研究」一九〇四年十二月号)

〇新しい聖書をつくるべし、といわれてキリスト者の中には驚く人が多いと思われる。聖書は完結したものであってそれは神の霊が書かせたものだ、それに付け加えるなどととんでもない、と思う人がほとんどのはずである。内村は人間がさらに書き加えたものを聖書として出版せよなどとはもちろん言っていない。

 ここで内村が言っているのは、キリストは今も活きて働いておられる。過去に聖書を書いた人たちは活きたキリストに働きかけられて、み言葉を与えられ、それを書いたのが聖書となったのである。それなら、今も活きたキリストが働いて、キリスト者に語りかけているのであるから、キリスト者はその神からの語りかけを受けて何らかの各自ができる方法によって、世に提供するべきだし、そうできると言っているのである。今も活きておられるキリストの言葉を受けて、この世のなかに聖書のいわば終わりの章を、祈りや言葉、文章や行動という形で書き加えていくべきなのである。それほど神は昔も今も永遠の命を人々に注ぎ続けておられる。

著作家のことば

(129)聖書と聖霊

 聖書知識だけでは人を救うことはできない。聖書知識に加えて聖霊の力をもってして人の霊魂は救われるのである。聖書そのものは死せる文字である。…

 聖書を学ぶ理由は、聖書によりて救われるためでない。聖霊を身に招くためなのである。聖霊が、聖書知識に点火して、死せる霊魂を活き返らせるのである。(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇七年三月号より)

〇聖書に関する知識だけでは、魂の救いに至らないのは、キリストの時代に聖書の細かな知識をもっていて人々に教えていた律法学者やパリサイ派の人たちがかえってキリストの真理を受け入れることができず、逆にキリストを殺そうとするほどに誤ってしまったことはこれを示している。この内村の言葉は、パウロの次のような言葉がもとになっている。 (私たちは)文字に仕える者ではなく、霊(聖霊)に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。(Ⅱコリント三・6)

著作家のことば

(209)祈りは力である。また、祈りは働くことである。私たちは生きて働く神に向かい、行動へと送り出される。…祈りは、ことばを最高に用いることである。(フォーサイス著 「祈りの精神」26頁 )

○祈りは、神からの力を与えられ、その力によって働くことへとうながされる。神はむだには力を与えられないからである。そしてそれが小さな行動であっても、そのことを通じて新たな力を与えられる。 人間の言葉の最もよき使い方は、祈りだと言われている。神に向かう言葉、人への愛のこもった祈りこそは、言葉が最高に用いられていると言える。

(191)病気や高齢の人のなかには、「私は人の役に立つようなことは何もしていない」と言って心を痛める人がいる。しかし、彼らは忘れてしまったのであろうか、その祈りはいつも神に迎え入れられているということ、その祈りは彼らの思いをはるかに超えて何らかの事を満たしているということを。(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ著 149P)

私自身、このような嘆きの言葉をよく耳にしてきた。しかし、弱き者を慈しまれる神、キリストに従う者だからといって差し出す水一杯にも豊かな祝福を約束された主は、病の人、老齢の人の小さき祈りをも決して無にされることなく、それを必ず何らかのことを満たすために用いられる。それはだれかの心の平安を満たすことであったり、社会のどこかにいのちの水を、平和をもたらすことであったり、病の人の苦しみを軽くすること、家族のなかに恐れを神への信頼に変えることであったりするであろう。

(170)祈りの人とは、単に祈りをする人ではない、祈りによってすべての事をなす人である。

更に進んで、祈りによるのでなければ、何事もすることができない人である。祈りによって学ぶ人である、祈りによって戦う人である。

すなわち自分の力によってするのでなく、神の力によって万事をなす人である。…

祈りの人とは、祈りは真実の力を持っていることを確信している人である、これに天地を動かすに足る力があることを信じて疑わない人である。

宇宙において最大の力を持っているのは、霊である神であることを知り、霊の誠実によって神に近づき、神から超自然的の力を受けようと願う者である。(内村鑑三・全集 第18巻 199~200頁 口語的表現に変えてある。)

○主イエスは「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなさい。つながっていなければ、自分では実を結ぶことはできない。」と言われた。主イエスにたえず結びついているとは、ここで内村が言っているように、たえず祈りの心をもっていることと同じである。

著作家のことば

(212)信仰とは、神へ向ってひたすら努力することではなく、神に己れをゆだねることである。…そうすれば、万事が順を追うてまったくひとりでに行われる。まず、青々とした畑、つぎに、実りを約束する穂、やがて、実った見事な穀物、そして生涯を無駄でなく、立派に過ごしたあとで、最後に安息のための収穫。「神を愛する者たちには、すべてのことが益となる。」(*)(ローマ人への手紙八・28)。 このことを信じる人にとっては、普通の意味での「幸福」や「不幸」の観念は、もはや存在しない。(ヒルティ著眠られぬ夜のために上七月一五日の項)

〇確かに、もし私たちがすべてのこと、―病気や家族の不和や死別、事故、職業上の困難などいろいろのことをも、私たちが神の愛と万能を固く信じ続けるかぎり、すべては益と変えられていくと信じることができるなら、神はそうした信仰を祝福し、実際にそのようにして下さる。これこそ、道のないところに新しい道を開き、水のない荒れ地に水をあふれさせて下さることである。

著作家のことば

(217)この信仰のなかでは、いっさいのわざが等しくなり、互いに同等のものとなる。わざが大きかろうと小さかろうと、長かろうと短かろうと、あるいは多かろうと少なかろうと、そうしたわざの区別はいっさいなくなってしまう。

 わざが神に喜ばれるのは、わざそのもののためではなく、信仰のためであり、そしてその信仰はわざがどんなに数多く、またどんなに異なっていようとも、すべてのわざの一つ一つの中に、唯一のものとして存在し、生きて働くからである。(「善きわざについて」ルター著 聖文舎刊 ルター著作集第一集第二巻15頁)

〇私たちが何かよきことをしようとするとき、それがどれほど目に見える効果があるかとか、相手や周囲の人々に評価されるか、などを考えてするなら、それは自分の判断や人間の評価を重んじてやっていることである。

しかし、自分のなそうとすることが神の御心にかなうという確信があり、万能の神、真実の神の力を信じて、その神が用いて下さるなら、無から有を生じさせるのだから、小さくとも神は必ず祝福して用いて下さる、と信じてすることは大きなわざと同じ意味を持ってくる。

重い犯罪人であっても最後のときに、イエスへの信仰をあらわした人は、キリストとともに今日パラダイスに入ると、約束されたが、ここにも信仰がどんなわざにもまして神に喜ばれることを示している。

神はどれだけ多くをなしたか、でなく、どれほど、神への愛と信仰をもってなしたかをみておられる。

著作家のことば

(299)どんな人間でも、どんな状態でも、人は神さまに必要とされている、大事にされている。
聖書を読んでそう気づかされたとき、「生きていてほんとうによかった!」と思いました。
(「ことばの雫」星野富弘著100頁 いのちのことば社)

著作家のことば

(300)私も若いときには、外来診療や患者の回診や注射、多くの検査などと忙しい業務で走り回っていた自分を反省する。忙しいから患者さんとの会話が短いのもやむを得ないと割り切って考えていた。
ところが、医師としての経験を積むにつれ、患者さんや家族との会話こそは、患者さんや家族にとっての一番大切な薬だということを次第に強く学ばされるようになった。
(「出会いに学び、老いに成長する」150頁 日野原重明著 講談社)

〇人間は互いに心の交わりを求める。愛のこもった会話は魂にとっての大切な薬となるというのは、医者や患者に限らず、すべての人間にあてはまるだろう。

忙しい医者にこうしたよき会話を期待することは難しい。しかし私たちには魂の医者というべき愛の神、キリストがいて下さる。私たちが主と結びついていようとするなら、神もキリストも私たちの内に留まって下さるという約束がある。(ヨハネ十四・23)

私たちはそのうちなる神に語りかけ、神からの語りかけを受けるとき、最もよい薬をいただくことになる。

神との魂の語り合いを十分に持てないときでも、神の創造された夜空の星や青い空や雲、そして身の回りのささやかな植物たちを見つめるときにもそこから私たちに語りかけるものを感じることで、それもよき薬になる。

著作家のことば

(301)「主よ、彼らをいやしたのは、薬草や塗り薬ではなく、すべてをいやすあなたの言葉であった。」(旧約聖書続編・知恵の書十六・12)

〇病気の苦しみや痛みにさいなまれるとき、何とかして少しでもこの苦しみを和らげる薬を、治療をと願うのはだれにとっても同じである。そしてそのいやしが与えられたときには大きな喜びがある。しかしなお、その後にも依然として残るのは、心の問題、悩みであって、それはどんな薬も治療もどうすることもできない。そのような最も奥深い心の苦しみをいやすのが、神の言葉であり、その背後にある神の愛である。