聖書の中から
〇 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである。」(ヨハネ第一の手紙・四・19)
〇 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一の手紙四・10)
「いのちの水」誌2002年5月号〝キリストの愛・聖霊・平和〟より引用
私たちがキリストを信じ、愛しているとき、互いに信じる者同士も主にある愛をもって関わることができる。主イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネ福音書十四・15)と言われたが、その掟と訳されている言葉の内容とは、互いに愛しあうということであった。すなわち、神(主イエス)を愛することが原点であり、そこから互いに愛し合うこと、仕え合うことが生まれる。
主イエスも、一番重要なこととして、神を愛し、隣人を愛することと教えて、まず神を愛することをあげられた。
しかし、私たちが神を愛する前に、すでに主は私たちを愛されたのであって、最初の出発点は、私たちが神を愛したことでなく、神がまず私たちが気付かないうちから愛して下さっていたことである。キリストが最後の夕食を迎えるときにも、わざわざ弟子たちの足を洗うということをされた。それは主イエスの弟子たちへの深い愛の象徴的行動であった。
イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 (ヨハネ十三・1)
このように私たちがまず神を愛したのでなく、まず神の方から、主イエスの方から私たちを愛して下さったということは、聖書で繰り返し言われている。
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである。(ヨハネ第一の手紙・四・19)
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。( ヨハネ第一の手紙四・10)
パウロも同様にこのことを強調している。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された。(ローマの信徒への手紙五・8)
このように、まず私たちへの神の愛があった。そのことを知ると、私たちにもおのずから神を愛し、主イエスを愛する心が生まれる。そこからキリストの戒めである、互いに主にあって愛し合うということが生まれてくる。
私たちは単に信じているだけなのか、主イエスを愛しているのかが問われている。主イエスへの愛がなければ、戒めも守れない。自分を愛してくれるものだけに好意を示そうとする、それは聖書の愛でなく、人間の好き嫌いの感情であり、それは特定の人のみに注がれる差別的な感情である。そこからは決して真実なものは生まれず、分裂や混乱、ねたみなどが生じる。 キリストへの愛を持つことができるのは、神からの多くの愛を頂いたゆえであり、その愛によって無差別的な愛が初めて生まれる。(文 T.YOSHIMURA)

