神こそわが望み、心を高くあげよう

聖書の中から

〇「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
わたしの神よ、あなたに依り頼みます。
あなたに望みをおく者はだれも
決して恥を受けることはありません。
主よ、あなたの道をわたしに示し
あなたに従う道を教えてください。
あなたのまことにわたしを導いてください。
教えてください
あなたはわたしを救ってくださる神。
絶えることなくあなたに望みをおいています。」(詩編25編1~5節)

「いのちの水」誌2012年5月号〝神こそわが望み、心を高くあげよう―詩篇25篇―〟より引用。
この詩ははっきりとした特徴を持っている。それは1節にある「あなたを仰ぎ望む」という言葉である。この言葉を言い換えて3、5、15、21節にあるように、「あなたに望みをおいている」「主に目を注いでいます」と、いくつかの言葉でそのことを表していて、初めから終わりまで、神に望みをおくという基調がある。
この世のあらゆるもの―特定の人間や自分の能力、考え、あるいはお金や健康など目に見えるもの、あるいは社会の組織等々は、必ず壊れる。そこに希望を置いているなら、そのような希望も必ず壊れる。
この作者は、人間の本当の希望はただ神にあることを深く知っていた。

1節の原文は「わたしはわたしの魂を引き上げる。」英語訳は原文とほぼ同じように訳されている。
I lift up my soul.

人間の心は自然のままでは狭く、低いところへと落ちていく。そういうことから、この詩人はまず心を高く上げようということから始めた。
私たちは、うっかりすると日常生活の中で心がだんだん低く、汚れてくることが多いので、主日礼拝のような礼拝集会は、霊性を高く引き上げようとするのが目的である。みんなが集まることによって、またその集まりの中にいてくださる主イエスによって、共同で高くあげていただくためにある。

このように心をあげることは礼拝の基本の精神を表すので、讃美歌第2編では、最初に「心を高く上げよう」と題した讃美歌が置かれている。

こころを高くあげよう。
主のみ声に従い、
ただ主のみを見あげて、
こころを高くあげよぅ。
霧のようなうれいも、
闇のような恐れも、
みなうしろに投げすて、
こころを高くあげよぅ。
主から受けたすべてを、
ふたたび主にささげて、
清きみ名をほめつつ、
こころを高くあげよぅ。 
(讃美歌第2編1番より)

このようにまず心を高くすることは、わたしたちがいろいろな人間的なものから目をそらして、神を見つめようとすることにある。
そうすると神が助けてくださって、よりいっそう高く上げてくださる。自分で自分の心を高く上げることは、なかなかできないことだが、神に向って心の目を上げる、主をみつめようとするその心が神によって喜ばれ、そうしなかったよりも引き上げられることは確かなことである。
ときにはそのように引き上げられずに、泥沼にあえいでいるような気持ちが続くことがあっても、なおも、あきらめないで、主を仰ぎ続けるときには、時が来て確かにそのような霊的な泥沼から引き上げられる。

そして3節にあるように、神をいつも見つめて希望を持っている者は、決して恥を受けることがない。これは、単に恥ずかしくなることがないということではなく、見下され踏みつけられてしまうことがない、人の悪意によって滅ぼされることがないということである。
このすぐあと5節に「あなたは私を救ってくださる神」と言われているように、神を信じ、神に希望をかけているかぎり、滅びることなく、救われるのだという確信である。
どんなに追い詰められて苦しい中にあっても、その中で神のことを忘れなかったらまた道が開けていくということは、信仰を続けたきた人は、誰もが経験していることであろう。

4節「あなたの道を…」には、この詩人がわたしたちの歩むべき具体的な道についても、深く思っていたことが分かる。多くの英訳ではこの後のほうの「道」は「小道」path とも訳されている。(*)

(*)Make me to know your ways, O LORD; teach me your paths. (NRS)
主よ。あなたの道を私に知らせ、 あなたの小道を私に教えてください。 (新改訳)

道という原語にもいくつかあり、詩では同じ言葉を繰り返さないことが多いので、別の言葉が用いられているということもあろう。
しかし、たしかに神に従う道は狭い。主イエスが言われたように、「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。」(マタイ7の14)
わたしたちは神を見つめなかったら、神の道など、まるで関心がないし、教えてくださいという気持ちにもなれない。
この詩人が神の道と共に思い起こしたのが、神の真実である。人間はなかなか真実ではありえない。言うことも行うことも、間違ったり、嘘を言ったり、言い過ぎたりする。
ヨハネの福音書にある次の有名な言葉は、私たちの歩むべき「道」について完全な形で表している。

…私は道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14章6)

主イエスご自身が道であり、真理であり、命である。これは主イエスが道を教える以上に、主イエス自身が真理そのものだというのである。主イエスご自身が命であるから、主イエスと結びつけば、わたしたちもその道をひとりでに歩ける。
歴史上の有名な思想家や宗教家たちは、彼等が真理とすることを教えたり説明するだけであるが、主イエスは、イエスご自身が命であり、真理である。それゆえに哲学やいろいろな思想に関する難しい本を読んで勉強しなくても、主イエスを信じて受け入れるだけで道そのものを歩んで行ける。

 (文 T.YOSHIMURA)