聖書の中から
- 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3の16~17)
- 「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6の35)
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」(ヨハネ7の38~39)
「いのちの水」誌2012年2月号〝私たちへの呼びかけ― ヨハネの福音書の特質から―〟より引用。
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書がある。そのなかで、ヨハネ福音書はほかの三つとは異なる特質がある。ここでは、その一つを私たちへの直接のメッセージという観点から見てみたい。
「信じる」という言葉(動詞)の新約聖書における原語(ギリシャ語)は、ピステューオー pisteuo である。この言葉は、どのように新約聖書のさまざまの書で使われているだろうか。
コンピュータでそれを調べると意外なことがわかる。
ヨハネ福音書 98回、、マルコ福音書14回、マタイ 11回、ルカ 9回。ローマ書21回。
これを見れば、ヨハネ福音書が断然多い。同じ福音書といっても、マタイ、マルコ、ルカなどよりはるかに多い。
ヨハネ福音書がほかの福音書以上に、「信じる」という動詞の形を―「信仰」という名詞形でなく(*)―特に重視しているのがこの言葉の面でもはっきりとうかがえる。
(*)「信仰」という名詞形は、パウロが圧倒的に多く用いており、ローマ、コリント、ガラテヤの三書だけで 76回も使われている。信仰によって義とされる(救われる)という、いわば 法則として多く語られているからである。
それに対して、意外なことにヨハネ福音書では、「信仰」という名詞形は、一度も使われていないのであって、パウロの使い方と際立った対照をなしている。ヨハネ福音書では、すべて「信じる」という動詞の形で用いられている。
その理由として考えられるのは、マタイ、マルコ、ルカの福音書が、イエスの教えとその行動を記すことを中心としているのに対して、ヨハネ福音書は、神(キリスト)から、この福音書を読む人々に直接に語りかける内容を主体としているからだと言えよう。
例えば、「神とキリストを信じなさい。 信じるなら永遠の命が与えられる。」という言葉について言えば、この言葉を繰り返し、当時の人たちに語りかけるだけでなく、以後のあらゆる人たち、そして現代の私たちへのメッセージとして語り続けていると受け止めることができる。
それは、マルタとの会話でもその特質がわかる。
マルタは、当時のファリサイ派の人たちのように、世の終わりのときに復活することは知っていると答えた。しかし、主イエスは、それを訂正するかのように、「私を今信じるなら、それだけで今、永遠の命を与えられ、死なない者と変えられる。死んでも生きる」と言われた。そしてその真理を語ったあと、「あなたはそれを信じるか…」と問いかけられた。
これは、単にマルタという昔の女性に問いかけた言葉でない。それは世界の国々のあらゆる人たちに語りかける生きた言葉なのである。
このように、動詞の形を多く用いることで、私たちへの呼びかけ、メッセージというニュアンスをたたえたものとなる。
(文 T.YOSHIMURA)
「いのちの水」誌2002年6月号〝求めよ、探せよ、門をたたけ〟より引用。
求めよ。そうすれば、与えられる。
探せ。そうすれば、見つかる。
門をたたけ。そうすれば、開かれる。(マタイ福音書七・7)
これは聖書のなかでも最も有名な言葉のうちの一つであろう。そしてほとんどの人はこの言葉の深い意味に感じないままで、忘れていくだろう。
求めていく意思の重要性をこれはきわめて簡潔に述べている。しかもそれは人間にでなく、何よりも神に求めていく姿勢の重要性である。神を信じて求め続ける心は必ず報いられるという約束がこの言葉なのである。
求めたら与えられるといっても、自分が求めているものそれ自体が与えられるとは限らない。例えば、ある病気になったとする。だれでも病気の苦しみと痛みはひどくなるほど耐え難いものがある。それを必死でいやされるように祈っても、病気がなおらないこともあり得る。ついに病気がいやされないまま、死に至ったキリスト者ももちろん無数にいる。
それなのに、なぜこの言葉はかわらぬ力をもって過去二千年の間、人々を惹きつけてきたのだろうか。
それは、神の万能を心から信じ、そこに信頼し、その神に向かって切実に求める心は、神の国に属する何かが必ず与えられるのを実感するからである。たとえ愛するものが祈り空しく若くして召されたとしても、たとえ大きな誤解を親しい者から受け続けているとしても、そのために祈り続けるならば、必ず神の国が与えられる。聖霊のいぶきを受けることができる。そしてそこから、神の国を遠望するかのように、見ることを許されるようになる。
求めているものが与えられないという現実によって、神は求める者のまなざしが、もなおも、遠く、なおも高く引き上げられていくようにと導いていかれる。神に求めよ、そうすれば霊的な視力がますます遠くまでのびていく、深まっていくという恵みが与えられるのである。主はそのような意味でも私たちに約束されている。
まず神に向かって求める心が必要である。そしてそれから具体的に探し、門をたたかねばならない。真理を欲しいという切実な求める心が必要である。ただ求める気持ちだけではいけない。それを理性を用いても、また実行によっても探して行かねばならない。また、じっとしていては開かれない。人間も事柄も、事件も門をたたいていかねばならない。具体的にある人間のところを訪問して門をたたく、また文書の類、書物などでも探す。求めるだけでなく、探さねばならない。
求めよという呼びかけに私たちは神に求めるまなざしを向ける。そしてそこから神の励ましを受けるとき、探していく、それは同じ苦しみを持つ友であるかも知れない、同じように神を信じる友であり、また彼らの賜物を分かち与えてもらうことであるかも知れない。ほかの人にも祈ってほしいと求めること、それは祈ってくれる人を探すことであり、ともに祈ることによって、開かない扉をたたくことである。ともに祈ることは、「二人、三人主の名によって集まるところには、主がともにいる」という約束の通り、そこに主がいて下さるゆえに、一人では開かない扉も開くのである。
門をたたけ、ともに祈りによって開かない門をたたこう。
探せ、自分だけでは探せないところを他のひとの助けによって、探そう。苦しむ人への助けの道は、手段はどこにあるのか、一人で考えても分からないことがある、そんなとき、ともに祈ってその道を探そうとするとき、主が与えて下さることがある。
この世は、神にむかって求め、その神へのまなざしを持ちつつ、この地上の生活で探し続け、門をたたき続けることで成っている。伝道も同様である。求める人はどこにいるのか、探し求める気持ちをもっているとき、神はそのような求める人を近くに招き寄せてくださる。また、固い心になった人をも、動かないような困難な状況に直面しても、不思議な力が働いて、それが開いていく。
主イエスご自身も、この典型であられた。世を徹しての祈り、それは神に求めることであった。激しく求め続けることであった。そして自分に従う者たちを探された。本当に福音を必要とするもの、失われた羊をどこまでも探し続けられた。それはつぎのよく知られた箇所に見られる。
あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。(ルカ福音書十五・4~6)
主イエスは形式や権力、あるいは伝統や習慣で縛られていた、当時の信仰のあり方に、神の力をもってその扉をたたいた。すると、それまで決して開かないと思われていた新しい命の信仰の世界へと扉が開いたのであった。 今日の私たちはその主イエスが開いてくださった門から導き入れられ、主の平安を知らされた者なのである。
(文 T.YOSHIMURA)

「いのちの水」誌2017年3月号〝信仰による救い、祈り、愛、癒し〟より引用。
〇「…イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、罪まで赦すこの人は、いったい何ものだろう、と考え始めた。
イエスは女に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」
(罪深い女に対して、ルカ7の50)
〇「…一人のらい病人が、イエスに近寄って、ひれ伏して「主よ、御心ならば、私を清くすることができます。」と言った。
イエスが手を差し伸べて、 その人に触れ、「清くなれ!」といわれると、たちまちらい病は清くされた。」(マタイ8の2~3)
ここでも、らい病人のイエスに対する信仰に答えてイエスが御手をのべて触れ、清めを与えたー救いを与えられた。
〇「…イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」」(12年間の出血の病気をわずらっていた女性に、同8の48)
〇「…イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」」(らい病の人に、ルカ17の19)
〇「…そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」」(盲人の人に、ルカ18の42)
周囲の人たちの信仰によって、別の人の罪が赦されるということも記されている。
〇「…人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。 」(マタイ福音書9の1~2)
マルコ福音書2章1節では、中風を患う人を、屋根を破ってイエスのところにつり下ろしたことが書かれている。この病人を連れてきた人たちは何とかして中風の人の起き上がることもできない苦しみを治してあげたいという心があったのがうかがえる。
それとともに、イエスに対する非常な信頼があった。中風の人に対する特別な愛と、イエスに対する絶対的な信仰が無ければできないことである。ここでは信仰と愛が一つになっている。
イエスは、中風の人を多くの労を費やし、さらには、多くの人がいてイエスの前に病人を運んでいくことができないことを知って、屋根をはがして病人を屋根から吊り下ろすーという考えられないような行動にでた。
そんなことをすれば、その家の人から、また周囲にいる人たちから、きつい非難を受けるし、壊した屋根を弁償させられるしー等々を考えるならそんなことはできない。
中風の人をそんなにまでして治してもらいたいーと願う幾人かの人たちの病人への限りない愛とイエスへの絶対的信頼がここではきわだっている。 二人三人私の名によって集まるところには私もいるーこの人々の非常な熱心は、イエスを神の力を持つお方であると信じての行動だった。それはイエスの本質(名)によって心を合わせたといえよう。それゆえに、イエスは彼らの行動とともにいて、非常識とおもわれるところに道を開かれたのだった。人への純粋な愛ーこれは神からくるーと神を幼な子のように絶対的に信頼する心は、本来なら越えがたい大きな壁をも乗り越えていく。
(文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から
〇「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章6~7節)
〇「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」(創世記17章5節)
〇「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」(ローマ4章13節)
「いのちの水」誌2002年7月号〝備えられる神〟より引用。
旧約聖書で最も重要な人物の一人がアブラハムである。アブラハムは旧約聖書を教典とするユダヤ教においても、モーセとともに最も重要な人物であるが、イスラム教にとっても、彼らの信仰の模範がアブラハムなのであって、そういう点からみると、現在も全世界にその影響を及ぼしているほどに重要な人物なのである。
そのような特別に神に召された人物であるアブラハムについては旧約聖書に詳しく記されていて、後世の人間がどのようにアブラハムの信仰から学ぶべきかが浮かび上がってくるようになっている。
ここでは彼に生じた出来事のうち、とくに備えをされる神ということについて見てみよう。
アブラハムの生涯にはさまざまのことが生じた。それらはつねに何らかの試練でもあった。まず、生まれ故郷を離れて、遠い未知の国、神が指し示す国に行けという神の言葉に従うことがそうしたさまざまの試練の出発点となっている。
ようやくたどり着いた目的地において生活していたが、食料がなくなり、その地では生きていけない状態となった。そのために、遠いエジプトまで行き、そこでは自分の命の安全が保証されないという恐れのために、妻を妹と欺いて、エジプト王に妻を差し出して、窮地を逃れようとした。そのようなことをすれば、神の約束などすべて無にしてしまうことであったので、神みずからがアブラハムの弱さを顧みてその困難から救い出したのであった。
また、他のところから攻めてきた連合軍に自分の甥であったロトとその親族が連れ去られてしまったが、その連合軍を追跡して戦いとなり、彼らを取り戻したこともあった。
しかし、そのロトの住むソドムとゴモラの町が滅びることを知り、その町のために必死でとりなしの祈りをささげた。
さらに、家庭の問題で悩み、ハガルを追い出したこともあった。
自分たちが老年になるまで、子供が与えられず、神がかつてあなたの子孫は空の星のようになるとの約束がいくら待っても実現されないため、全くあきらめてしまっていた。
しかし、驚くべきことに神の約束は実現してすでに老年になっていたアブラハム夫妻に一人子が与えられた。
これは、神の御計画が実現するまでに、待つということがいかに重要であるかを示している出来事であった。そうした過程を通じて、アブラハムは、自分の弱さと限界、神の大いなる導きを学んできた。
アブラハムが受ける神からの祝福は、彼ら自身が祝福の基となり、生まれる子供も星のように増え広がるということであった。
しかしその一人子を神に捧げよとの命令が神からあった。老年になってやっと与えられた子供を神に犠牲の動物のように捧げるなどということがどうして神からの命令なのか、アブラハムは驚き、苦しみつつ神からの命令をどうすべきか夜通し苦しみ続けたであろう。
しかしそうした長い苦しみののちに、まぎれもない神の言葉であることを思い、アブラハムはその神の言葉に従って、一人息子のイサクを連れて、神から示された土地へと旅立っていった。
しかし、それほど大きな出来事であって、妻のサラも自分の子供が犠牲の動物のように捧げられようとしていることに対してどのように言ったのか、あるいは、アブラハムは妻にはこのことを話さなかったのか、それは全く記されてはいない。
妻にはどう言って、イサクを連れ、従者も連れて遠い旅に出ることを話したのだろうか。
途中、三日もかかるような遠いところであった。そこまでの行程でアブラハムと子供との会話も記されていない。ただ、神の謎のような言葉の意味を深く思いつつ、祈りつつ歩いて行ったのであろう。
神はこのように、全く人間には不可解なこと、しかも最も大切なものを奪うというようなことをされることがある。
神が示した土地にようやく着いて、アブラハムがいよいよイサクを捧げようとしたそのときに、神が天使を通して備えられた羊が与えられた。
この大いなる出来事のゆえに、アブラハムはそのことを場所に名前を付けることによって、記念した。
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり」と言っている。(創世記二十二・14)
これは単にアブラハムに生じたことでなく、以後の無数の神を信じて生きる人々に対しての大きな約束となったのであった。 アブラハムの場合はぎりぎりのところで神の奇跡がなされて、備えがあったのがわかる。しかし実際には、そのような大事なものを神が取り去ることも多くある。そのようなことを通して、神は祝福を与えられる。その大切なものが取り去られることがあっても、その場合には必ず別のものが「備え」として与えられる。
(文 T.YOSHIMURA)

