聖書の中から
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光を持つ。」(ヨハネ8の12)
「いのちの水」誌2023年2月号〝キリストは世の光・命の光〟より引用。
聖書は、全体として見ても、しばしばわずかなひと言が、あらゆる人間に、またいつ、どんな地域の人においてもあてはまるという驚くべき本質を持っている。
例えば、聖書の最初にあることば―
…神は言われた、「光あれ!」 すると 光があった。
(創世記1の3)
…神は愛なり。
(Ⅰヨハネ4の8) これらは、あらゆる希望の源泉となる。どんなに闇深くとも、神のご意志によれば、ただちに光が存在するようになる。希望が見えてくるという約束であり、預言である。
前途に闇が広がり、進むべき道のない絶望状態であっても、神が光あれ!と言われるなら、光が存在し、それによって道が見えてくる。どんな悪人とされている人でも、神が光あれ!と言われるなら、その人の心に光がともされることを信じることができる。
このことは、私自身21歳の春まで、こうした光などまったく感じられず、そんなものがあるとも思いもよらなかったけれども、ある日一冊のキリスト教の本の立ち読みで永遠の光を知らされた。
それは、主のご意志にかなった時が来て、私の心の深いところに、光あれ!と言われたゆえに、そのような光など、心に思うことも、考えたり他者から言われたこともまったくなかったのに、突然 神の光が心の深いところに射してきて、今日まで56年にわたってその光は消えることがなかった。
一時的にその光が消えていくように感じても、それは少しの間であって、心の方向転換をして主に向って祈るとき、ふたたびその光を感じるようになるのだった。
神は全能であり、無限の深い御計画をもってなされるゆえに、この御言葉の真理はだれにでもあてはまるのであって、神の全能と愛、真実を信じて求めて続けていくならば、不条理なことが自分や身近な人に、また仕事や人間関係で生じても、神は愛であるゆえに、きっと時至れば光を注いで最善にしてくださる、と信じることができる。
そして神は愛であるゆえに、神が創造された自然もみな、木々の一つ一つ、その葉や花の色、形…等々、また幹の模様や樹形…等々も神の愛が込められていることになる。
それゆえ、それらの姿そのものにおいても、神の愛のひとしずくがそこに落とされ、また神の息吹の愛の一吹きを感じることができるように導いてくださる。
(文 T.YOSHIMURA)

「いのちの水」誌2008年11月号〝希望の神―旧約聖書における希望〟より引用。
こうした状況に対して、聖書はどのように私たちに語りかけているだろうか。
聖書の巻頭に、神が天地を創造されたときの状況が記されている。
… 地は混沌であって、闇が深遠の面にあった。
神は言われた。
「光あれ!」
こうして光があった。
闇と混沌、それは希望が全くないという状況である。そこに光あれ!とのメッセージを投げかける神によって光が生じた。このことは、どんな深い闇があり、どうやって生きていけばよいのか分からないときにあっても、前途を指し示す光が与えられるということ、神にもとづく希望があるということを示している。
聖書はその巻頭において、強力な希望のメッセージから始まっているのである。
そして最初に創造された兄弟という人間関係はカインとアベルであったが、兄のカインは妬みから弟を殺してしまう。この悲劇的な結末は、彼らの両親であるアダムとエバが、神の言葉に従わずに背いて神の創造されて理想的な場(エデンの園)を追いだされたゆえであった。楽園を追放されたがゆえに彼らの家庭も楽園とは正反対の憎しみ、殺意が生じてしまったのである。
そのような暗闇にみずから落ち込んでいったカイン、それは万能と正義の神によってただちに滅ぼされると予想されたし、カイン自身もそのように思っていた。
…神が私をここから追放すれば、私は地上をさまよう者となってしまう。そうすれば、私に出会う者はだれでも私を殺してしまうだろう。…
しかし、意外なことに、そのようなカインの言葉に対して、神は次のように言われた。
…カインを殺す者は、だれでも七倍の復讐を受けるであろう。…
そしてカインに出会う者が誰も彼を殺すことのないように、カインに特別なしるしを付けた、と記されている。(創世記四章)
このような古い記述は現代の私たちとは何の関係もないように思われがちである。単なる古代文書の話し、神話のようなものだとしか受け取らない人も多い。しかし、聖書の記述は一見そうした私たちと関係のないように見えても実は深く人間の本質とかかわることが随所で記されている。
ここでも、どんな重い罪を犯してもなお神からは見捨てられていないという希望が記されているのである。旧約聖書の神は裁きの神、正義の神だというイメージが強い。たしかにそのように思われる箇所も多く見られる。
しかし、聖書の最初にある書の初めの部分にすでにこのようにそうした裁きの神というイメージとは大きく異なる姿がある。ここではすでに、罪を犯した者を見つめ続け、悔い改めを待って下さる神の本質がすでに記されているのに驚かされる。
カインにはしるしが付けられた。それは裁くためのしるしでなく、殺されないための守りのしるしであった。私たちも罪を犯し、他人に深い心の傷を負わせてしまうことがあるだろう。自分では気づかなくともそのようなことはしばしばあるだろう。しかし、それがあるから裁かれてしまうなら人間はみな滅ぼされてしまうだろう。
神は、そのような人間にいわばしるしを付けて見守っておられるということなのである。人間すべてにいわばしるしが付けられていて、悔い改めを待たれているということが言える。
希望を与える神の姿は、旧約聖書で最も重要な人物の一人である、アブラハムにもはっきりと示されている。
神は未知のところへ行くようにと指し示すお方である。そしてそこに祝福があると約束される。このような記事を読むときに、過去の特定の人だけにあてはまると考えがちである。しかし、過去の特定の信仰の人に生じたこと、約束されたことは、私たちも信仰を与えられて生きるときには、本質的には同様の約束を受けるということが暗示されている。
希望とは将来のこと、未来について言われることである。そして聖書の記述は未来への祝福がつねに約束されているゆえに、確固たる「希望」を内に秘めた内容となっている。
…主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となる。
(創世記十二章より)
このことは、主イエスの山上での教えの最初にある次の言葉と関連している。
ああ、幸いだ。心の貧しい人たちは。
神の国はその人たちのものだからである。(マタイ五・3)
神の国が与えられるということにまさる祝福はない。そのような最大の祝福が与えられるということは、その祝福が基となって当然外に向かっても流れていくということを意味する。自分だけにしか役だたないことは真の祝福ではないからである。 そう考えると分かるように、アブラハムがはるかな昔に祝福の約束を受けたことは、実はキリスト者すべてに対するものであったのである。
(文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から
〇「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。」(詩編130の5~6)
「いのちの水」誌2004年5月号〝聖書に示された希望―詩編より〟より引用。
私たちが弱くつぶされそうになったときにも見捨てないで、赦し、力を与えるという神の愛を本当に知ったとき、私たちには希望が生れる。この世はたしかに闇があり、苦しみがあり、どこに行っても悩みがある。そして最後には病気や死が待ち構えている。
そこには希望が次々と壊れ、消えていくしかないように見える。そのただなかに神は希望を見出すようにして下さっている。
いかなることがあっても壊れないような希望、それはこのように罪赦されたという実感から自然に生じるのである。
これは通常の希望といかに異なっていることであろうか。ふつうの希望は、自分のうちなる深みからでなく、外側をまず見ることから生じている。友達をもちたい、容姿がきれいになりたい、パイロットや野球の選手になりたい、いい大学に入りたい、健康とかよい結婚への希望などなど、それらはみんな自分の心の深いところとは関係なく、外側のものを見てそれをたんにほしがるという気持ちなのである。
しかし、外側のそうしたものは時間が経てば消えていくし、たいてい自分の手の届かないところにある。またそれらは偶然や他人の意志で変わってしまう。
しかし、罪赦されたところから出発する希望は、自分という最も身近なところから出発するゆえに、強固なものとなる。
罪を赦すような愛、万能の力それを自分にもまた他人にも豊に与えられるようにとの願いが生じる。そしてそのような万能の神が自分の直面する病気や人間関係、また将来のことなどさまざまの問題についても希望を持つようにとうながしてくれる。 他人のこと、世界のことについてもその万能のゆえに希望を失うことがない。
(文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から
〇「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマ5章2~4節)
「いのちの水」誌2004年5月号〝忍耐と希望〟より引用。
聖書においては、「忍耐」と「希望」とは不可分に結びついている。この点では日本語の「忍耐」という言葉とは大きく異なっている。
日本語では、困難な状況にある人に対して「忍耐しなさい」と言えば、それはがまんする、がんばってそれに耐える、という意味になる。国語辞典にも「じっと我慢すること」(学研国語辞典)とあり、広辞苑では、「こらえること。たえしのぶこと。」と説明されている。
ここには希望というのはない。希望はないがただ我慢するだけだということで、事態がよくなることへのあきらめがそこにある。
しかし、聖書において「忍耐」というとき、それはたんなる我慢やこらえるというようなことではない。
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。(Ⅰテサロニケ一・3)
ここで、パウロが絶えず覚えているのは、信徒たちが信仰によって働き、愛ゆえに苦しみつつ働き、希望と結びついた忍耐ということであった。このように忍耐は直接に希望とつながっていることが示されている。
また、
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。(ルカ福音書八・15)
このたとえにおいても、私たちが実を結ぶのは、み言葉を心して受け入れ、どんなことがあっても、神に希望をおきつつ耐えていく、それが実を結ぶことにつながると言われているのであって、単に苦しみを我慢していたら実を結ぶというのではない。
(文 T.YOSHIMURA)

