希望について

聖書の中から

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマ5:2~4)

「いのちの水」誌2004年5月号〝忍耐と希望〟より引用。

聖書においては、「忍耐」と「希望」とは不可分に結びついている。この点では日本語の「忍耐」という言葉とは大きく異なっている。

日本語では、困難な状況にある人に対して「忍耐しなさい」と言えば、それはがまんする、がんばってそれに耐える、という意味になる。国語辞典にも「じっと我慢すること」(学研国語辞典)とあり、広辞苑では、「こらえること。たえしのぶこと。」と説明されている。

ここには希望というのはない。希望はないがただ我慢するだけだということで、事態がよくなることへのあきらめがそこにある。

しかし、聖書において「忍耐」というとき、それはたんなる我慢やこらえるというようなことではない。

あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。(Ⅰテサロニケ一・3)

ここで、パウロが絶えず覚えているのは、信徒たちが信仰によって働き、愛ゆえに苦しみつつ働き、希望と結びついた忍耐ということであった。このように忍耐は直接に希望とつながっていることが示されている。

また、

良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。(ルカ福音書八・15)

このたとえにおいても、私たちが実を結ぶのは、み言葉を心して受け入れ、どんなことがあっても、神に希望をおきつつ耐えていく、それが実を結ぶことにつながると言われているのであって、単に苦しみを我慢していたら実を結ぶというのではない。
(文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」(1ペテロ1:3)

「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(2コリント1の8~9)

「いのちの水」誌2015年3月号〝生きた希望〟より引用。

私たちが主イエスと結びつくとき、希望は実現しない空しいものでなく、生きた希望(living hope)となる。 (1ペテロ1の3より)
 それはその希望を持っているだけで力を与えられる、その希望が私たちに働きかけるという意味で生きている希望といわれる。
 信仰、希望、愛はいつまでも続くと言われている。そこで言われている希望も生きた希望であり、神の命が込められた不滅の希望だからいつまでも続く。
 パウロももう死ぬかもしれないと厳しい試練のときには死を覚悟した。そこで復活させてくださる神を頼りとするようになった。生きる望みは失ったが、復活させてくださるという神への希望がますます生きて働くようになったのである。(2コリント1の8~9より)
 主イエスと結びつくとさまざまのものが命を持って感じられてくる。
 賛美を歌うことも、その賛美によって何か力づけられる、聖霊をより感じる―というようになる。それは生きた賛美―Living Praise となるからである。
(文 T.YOSHIMURA)