聖書の中から
○「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。」(詩編130の5~6)
「いのちの水」誌2004年5月号〝聖書に示された希望―詩編より〟より引用。
私たちが弱くつぶされそうになったときにも見捨てないで、赦し、力を与えるという神の愛を本当に知ったとき、私たちには希望が生れる。この世はたしかに闇があり、苦しみがあり、どこに行っても悩みがある。そして最後には病気や死が待ち構えている。
そこには希望が次々と壊れ、消えていくしかないように見える。そのただなかに神は希望を見出すようにして下さっている。
いかなることがあっても壊れないような希望、それはこのように罪赦されたという実感から自然に生じるのである。
これは通常の希望といかに異なっていることであろうか。ふつうの希望は、自分のうちなる深みからでなく、外側をまず見ることから生じている。友達をもちたい、容姿がきれいになりたい、パイロットや野球の選手になりたい、いい大学に入りたい、健康とかよい結婚への希望などなど、それらはみんな自分の心の深いところとは関係なく、外側のものを見てそれをたんにほしがるという気持ちなのである。
しかし、外側のそうしたものは時間が経てば消えていくし、たいてい自分の手の届かないところにある。またそれらは偶然や他人の意志で変わってしまう。
しかし、罪赦されたところから出発する希望は、自分という最も身近なところから出発するゆえに、強固なものとなる。
罪を赦すような愛、万能の力それを自分にもまた他人にも豊に与えられるようにとの願いが生じる。そしてそのような万能の神が自分の直面する病気や人間関係、また将来のことなどさまざまの問題についても希望を持つようにとうながしてくれる。 他人のこと、世界のことについてもその万能のゆえに希望を失うことがない。
(文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から
〇「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマ5章2~4節)
「いのちの水」誌2004年5月号〝忍耐と希望〟より引用。
聖書においては、「忍耐」と「希望」とは不可分に結びついている。この点では日本語の「忍耐」という言葉とは大きく異なっている。
日本語では、困難な状況にある人に対して「忍耐しなさい」と言えば、それはがまんする、がんばってそれに耐える、という意味になる。国語辞典にも「じっと我慢すること」(学研国語辞典)とあり、広辞苑では、「こらえること。たえしのぶこと。」と説明されている。
ここには希望というのはない。希望はないがただ我慢するだけだということで、事態がよくなることへのあきらめがそこにある。
しかし、聖書において「忍耐」というとき、それはたんなる我慢やこらえるというようなことではない。
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。(Ⅰテサロニケ一・3)
ここで、パウロが絶えず覚えているのは、信徒たちが信仰によって働き、愛ゆえに苦しみつつ働き、希望と結びついた忍耐ということであった。このように忍耐は直接に希望とつながっていることが示されている。
また、
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。(ルカ福音書八・15)
このたとえにおいても、私たちが実を結ぶのは、み言葉を心して受け入れ、どんなことがあっても、神に希望をおきつつ耐えていく、それが実を結ぶことにつながると言われているのであって、単に苦しみを我慢していたら実を結ぶというのではない。
(文 T.YOSHIMURA)

聖書の中から
○「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」(1ペテロ1章3節)
○「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(2コリント1章8~9節)
「いのちの水」誌2015年3月号〝生きた希望〟より引用。
私たちが主イエスと結びつくとき、希望は実現しない空しいものでなく、生きた希望(living hope)となる。 (1ペテロ1の3より)
それはその希望を持っているだけで力を与えられる、その希望が私たちに働きかけるという意味で生きている希望といわれる。
信仰、希望、愛はいつまでも続くと言われている。そこで言われている希望も生きた希望であり、神の命が込められた不滅の希望だからいつまでも続く。
パウロももう死ぬかもしれないと厳しい試練のときには死を覚悟した。そこで復活させてくださる神を頼りとするようになった。生きる望みは失ったが、復活させてくださるという神への希望がますます生きて働くようになったのである。(2コリント1の8~9より)
主イエスと結びつくとさまざまのものが命を持って感じられてくる。
賛美を歌うことも、その賛美によって何か力づけられる、聖霊をより感じる―というようになる。それは生きた賛美―Living Praise となるからである。
(文 T.YOSHIMURA)

