聖書の言葉

聖書の中から

○ ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネの福音書16章22節)

〇 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(第二コリント6章10節)

「いのちの水」誌 2002年10月号〝天における大いなる喜び〟より引用。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカによる福音書15章4~7節)

…言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。(10節)

 天において喜びがわき起こるのは、たった一人でも心から悔い改めて神に立ち返るときであるという。そのようなことに最も深い喜びがあるなどと、ふつうは考えたこともない人が多数であろう。

 私たちは、自分たちの小さな喜びばかりに目を取られて、私たちすべてを支配されている神のいます天においてどんなときに大いなる喜びがわき起こるだろうかなどとあまり考えたことがないのではないだろうか。 

 この世には、神に祝福された喜びと、単なる自分本位の喜びや楽しみがある。飲食の楽しみは一人でも味わえる。あるいは、数人の仲間との飲食も楽しいだろう。しかしこれも健康を損なうとたちまちそのような楽しみは消えていく。飲食自体ができないほどに病気も重くなることがある。

 さらに、楽しみや喜びは悪いことをしても生じる。人を困らせておいて楽しみを感じるとか、または禁じられたことをして楽しむとか喜ぶなどということも多く見られる。

 しかし、そうしたことと全く異なる喜びがある。

 それがここで言われている、たった一人の罪人が悔い改めて、神に立ち返ることである。私たちが神のお心を与えられるならば、このことがどんなに深くて清い喜びであるかがわかってくる。

聖書の中から

〇 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救ってくださった。(詩編107編6節)

〇 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。(ローマの信徒への手紙12章12節)

「いのちの水」誌 2017年12月号〝共同体としてのエクレシア(集会、教会)〟より引用。

苦難において、どのように今から二千年も昔のキリスト者たちはそれを受け止め、耐え、乗り越えていったのであろうか。

 その一端が、聖書に記されている。

 使徒パウロは、ひどい迫害、圧迫のために、死を覚悟し、絶望的な状況となったほどであったが、そのようなとき、そのただなかで神の力が与えられ、救われたと記している。

 神はあらゆる苦難において、私たちを励まし、慰めてくださる。それゆえに、神こそ賛美されますように!ーと、次のようにその手紙のはじめの部分で強調している。 

… 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを励ましてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる。

聖書の中から

〇 わたしたちの神、主の喜びがわたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きをわたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きをどうか確かなものにしてください。(詩編90編17節)

「いのちの水」誌 2008年7月号〝収穫は多いが働き人は少ない〟より引用。

○ 主イエスは言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ福音書九・37~38)

主イエスが「働き人が少ない」と言われたのは、そのように日々の暮らしのための働きを言ったのではないことはすぐにわかる。それは、神の国のため、福音のために直接的な働きを意味しているのである。主イエスの目から見ると、この世はすでに刈り入れを待つばかりとなっている。イザヤ書などでキリストが来られるということが預言され始めて七百年もすぎたが、その長い年月は主イエスが来られるための準備の年月であった。そして時至ってキリストは来られ、まったく新たな時代となった。それはまた無数の人たちが救われ、神の国へと導かれる収穫の時の到来であった。

それゆえ主イエスは言われた。

…あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。(ヨハネ四・35)…

まだキリストは来ない、まだそんな時期でない、という感じ方はいつの時代でも同様である。 しかし、神のまなざしをもって見るときには、無数の穂が色づいて刈り入れを待っているという。それは救いにいたる人たちがキリストの福音を聞いてすぐに信じて神の国に入るということがありありと見えるということなのである。

そしてこの主イエスの鋭いまなざしは、たしかにそのとおりであった。

主イエスが十字架によって処刑されたのち、弟子たちやイエスに従っていた人たちの多数が日々祈り続けていたが、時がきて聖霊がゆたかに、激しく注がれた。それによってキリストの復活が証しされ、十字架での死の意味が宣べ伝えられて、波のようにその福音は世界へと伝わっていった。

これはまさに収穫であり、刈り取られて神の国に入れられたということなのである。 現代もその収穫の時代は続いている。神の国のために働き人が今も求められている。

 

聖書の中から

〇 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章4節)

〇 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。(第一ヨハネの手紙3章14節)

「いのちの水」誌 2011年10月号〝再生への祈り〟より引用。

マタイ福音書においてイエスの山上の教えのあと、まず記されているのが、病気のうち、最も精神的にも肉体的にも地獄の苦しみを味わうことになるものとしておそらく世界的に恐れられていたハンセン病の人のいやしの記事であった。

 そして、次に記されているのが、中風で寝込んでいてひどい苦しみにある人へのいやしであったし、その次もペテロのしゅうとめの熱病のいやしであり、さらには、多くの病人をいやされたという記述である。

 そして、このことは、イザヤ書53章に預言されているメシアが、「…彼は私たちの重荷を負い、私たちの病を担った」と記されていることの成就であった。(マタイ8の17)

 そうした肉体の病気に次いで記されているのが、精神の病といえる、悪霊に取りつかれた人のいやしである。

 次には、12年間も出血の病気があって、汚れた女とされて宗教的にも肉体的にも非常な苦しみを味わってきた人のいやされることや、生まれつきの盲人のいやしが記されている。

 こうした病のいやしとともに人間にとって最も深い願いと祈りがある。それは死からの解放である。マルコ、ルカ、ヨハネなどの福音書においては、死んだ人の復活をもさせるイエスの力が記されている。

 死は万人にとって最大の問題である。すべて罪悪も命にかかわるほど重くなる。相手を死に至らせるような犯罪は最も重いものである。それは命が最も大切なものだというのが当然であり、その大切なものを奪うことは最も重い罪となる。

 その重要な命はあまりにもはかない。病気だけでなく一瞬の事故や、小さな砲弾、あるいは刃物によっても失われる。

 愛するものが死んだときには、最も深刻な悲しみや苦しみがつきまとう。それゆえに、死にうち勝つことこそが、最も深い祈りと願いとなる。

 病気の重いとき、また老年のときには死は避けられない。しかし、その死のかなたに再生があるのならば、死は最も深刻な災ではないことになる。

 死の力にうち勝つという願いと祈りに応えるため、深い苦しみと悲しみを根源からいやすために主イエスは来られた。

主イエスによって 死からの再生は、万人にとって可能となった。

 再生と復興への祈り、それは究極的には、死からの再生であり、この世界全体の再生であり、復興である。

 死からの再生をなしうる神を信じるということ―それはこの世の一切を超える力を持つお方だと信じることである。

 ここから、主の祈りとして、世界中で最も多く繰り返し祈られてきた祈りへとつながっていく。

 御名が聖とされるように、この祈りは、人々によって神の本質が人間世界とはまったく別の汚されることも壊されることもないのだとみなされますように、ということである。  どんな災害や事件、事故があろうとも、それでもなお、神はその愛と真実をもって存在しておられるのだと、あくまで信じる姿勢が人間にありますようにとの願いである。

聖書の中から

〇 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音書14章6節)

〇 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。(イザヤ書55章8節)

「いのちの水」誌 2012年5月号 〝神こそわが望み、心を高くあげよう―詩篇25篇―〟より引用。

しかし、たしかに神に従う道は狭い。主イエスが言われたように、「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。」(マタイ7の14)

わたしたちは神を見つめなかったら、神の道など、まるで関心がないし、教えてくださいという気持ちにもなれない。

この詩人が神の道と共に思い起こしたのが、神の真実である。人間はなかなか真実ではありえない。言うことも行うことも、間違ったり、嘘を言ったり、言い過ぎたりする。

ヨハネの福音書にある次の有名な言葉は、私たちの歩むべき「道」について完全な形で表している。

…私は道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14章6)

主イエスご自身が道であり、真理であり、命である。これは主イエスが道を教える以上に、主イエス自身が真理そのものだというのである。主イエスご自身が命であるから、主イエスと結びつけば、わたしたちもその道をひとりでに歩ける。 歴史上の有名な思想家や宗教家たちは、彼等が真理とすることを教えたり説明するだけであるが、主イエスは、イエスご自身が命であり、真理である。それゆえに哲学やいろいろな思想に関する難しい本を読んで勉強しなくても、主イエスを信じて受け入れるだけで道そのものを歩んで行ける。

(文:T.YOSHIMURA、イラスト:投稿者)