聖書の中から
「今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」(第2テモテへの手紙1章10節)
「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。」(使徒言行録13章23節)
「いのちの水」誌 2011年6月号〝聖書における復興と再生〟より引用。
エッサイ(*)の株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。…
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。…
その日が来れば、エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ書11章より)
(*)エッサイとは、ダビデ王の父
このように、この世の荒廃から復興させ、再生の力を与えるお方(メシア、救い主)が、エッサイ、ダビデの子孫から生まれるという預言がここになされている。その救い主の特質は神の霊を受けているということ、そこから弱きものに力を与え、正義を行うということが記されている。
このことは、現代においてもそのままあてはまる。真の復興と再生は人間の努力や武力や権力でもなく、神の力、神の霊によるのであって、それとともに弱い者への愛がはたらく。神の愛こそは死んだようになった者をも再生する原動力なのである。
聖書の中から
「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」」(ルカ2章10節~12節)
「シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」(マタイ16章16節)
「いのちの水」誌 2011年12月号〝キリストは何のために来られたのか〟より引用。
クリスマス(*)、それはキリストへの特別な礼拝のときである。
それは、キリストがこの世に来られたことの意味をあらためて思い起こし、記念し、感謝を新たにし、さらになおいっそうの力を与えられることである。
世界にひろがったキリストとその言動の記された新約聖書、その誕生を記念するクリスマス、その復活を喜び記念するイースターなど、キリストにかかわることは全世界に見られる。
(*)Christmassは、Christと mass からなる語で、キリストのミサという意味であり、キリストへの礼拝を表す。
来るべきメシア(キリスト、救い主)は何のために来られるのか、それは弱き者、傷ついた者、消えていこうとするような者を顧みて、新たな命を与え、不正に満ちたこの世に正義を、正しい道を(口語訳)を示すためなのである。
そしてそのためにこそ、神はメシアに神の霊を豊かに注がれた。
人間の生まれつきの性質では、このような弱き者への愛や、消えていこうとする者に命を与えるなとどいうことができない。わずかにできたとしても、それは必ず一時的であり、また相手が自分に対してのお返しがなければ続かない。よきことをした相手が恩知らずのような態度をみせるととたんに嫌悪感や落胆あるいは軽蔑などに変わったりしてしまう。
メシアとは、そうしたいかなる人間的感情を越えて、人間を助け、救いだそうとして下さるお方である。それは神の霊の力なくしてはできない。
キリストは何のために来られたのか、それは自らが十字架で死ぬことにより、人間の根本問題である罪の赦しを人類に与え、さらに聖なる霊(神の霊、キリストの霊)を与えて、新たに生まれ変わらせ、力を与えてその聖霊に導かれて生きるようになるためなのである。
聖書の中から
〇「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)
〇「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。(第一ヨハネの手紙4:12)
〝Q and A 回答ページ キリスト教とは何か〟より引用。
キリスト教での神様は、一言で言えば愛の神であります。我々人間を子供のように見守り、いつも本当に我々のためになることをおもんばかって下さっている神様ということであります。そしてその愛というのは果てしがないのであって、人間がそうした愛の神を知るには、ただひとえに心を神様の方へ向けることだけでよいのです。
「私を仰ぎのぞめ、そうすれば救われる」(旧約聖書イザヤ45章)といわれている通りです。私たちが苦しい病や孤独に陥って悲しみ、苦しんでいる時、その苦しみが大きいほど、人間の友も遠くに感じられてしまいます。そうした悩み悲しめる心に慰めと安らぎを与えて下さるからこそ、愛の神というのです。
聖書の中から
〇「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(第二テモテへの手紙 3:16)
〇 「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」(ローマ人への手紙15:4)
〝問コーナー-2000/8-6〟より引用。
聖書には、新約聖書と旧約聖書とがあり、聖書が万人に知られているように、旧約とか新約という言葉も広く知られています。しかし、その意味になると、どうもわかりにくいと言われることがあります。
旧約とは、神がとくに選んだイスラエルの民に与える恵みの約束のことです。その恵みを神が与え続けるために、十戒という特別な戒めが与えられたのです。
新約とは、新しい契約のことで、あらゆる人間、民族に与えられた恵みの約束なのです。それは神からの一方的な恵みの約束だと言えます。その根本の内容としてキリストの十字架による罪の赦しがあり、赦された者が神に従って生きるために聖霊が与えられるということなどがその内容となっています。
聖書の中から
〇「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル人への手紙 11:1)
〇「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。」(マタイ9:22)
「いのちの水」誌 2010年11月号 〝神への信頼と信仰〟より引用。
神を信じるというときには、神の言葉を信じる、主イエスを全面的に神の子として、すなわち神と同質のお方だと信じるというならば、主イエスの言葉をも信じるのである。
このような単純な信仰、それゆえに力ある信仰こそ、私たちが持つべき信仰だと主イエスは言われている。そしてそのようにまっすぐな信頼の心をもって神を、あるいは主イエスを見つめる心こそ、幼な子のような心なのである。
「…イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」」(ルカ18の16~17)
