聖書の言葉

聖書の中から

〇「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)

〇「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。(第一ヨハネの手紙4:12)

〝Q and A 回答ページ キリスト教とは何か〟より引用。
キリスト教での神様は、一言で言えば愛の神であります。我々人間を子供のように見守り、いつも本当に我々のためになることをおもんばかって下さっている神様ということであります。そしてその愛というのは果てしがないのであって、人間がそうした愛の神を知るには、ただひとえに心を神様の方へ向けることだけでよいのです。
「私を仰ぎのぞめ、そうすれば救われる」(旧約聖書イザヤ45章)といわれている通りです。私たちが苦しい病や孤独に陥って悲しみ、苦しんでいる時、その苦しみが大きいほど、人間の友も遠くに感じられてしまいます。そうした悩み悲しめる心に慰めと安らぎを与えて下さるからこそ、愛の神というのです。 

聖書の中から

〇「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(第二テモテへの手紙 3:16)

〇 「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」(ローマ人への手紙15:4)

〝問コーナー-2000/8-6〟より引用。
聖書には、新約聖書と旧約聖書とがあり、聖書が万人に知られているように、旧約とか新約という言葉も広く知られています。しかし、その意味になると、どうもわかりにくいと言われることがあります。
旧約とは、神がとくに選んだイスラエルの民に与える恵みの約束のことです。その恵みを神が与え続けるために、十戒という特別な戒めが与えられたのです。  
新約とは、新しい契約のことで、あらゆる人間、民族に与えられた恵みの約束なのです。それは神からの一方的な恵みの約束だと言えます。その根本の内容としてキリストの十字架による罪の赦しがあり、赦された者が神に従って生きるために聖霊が与えられるということなどがその内容となっています。

聖書の中から

〇「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル人への手紙 11:1)

〇「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。」(マタイ9:22)

「いのちの水」誌 2010年11月号 〝神への信頼と信仰〟より引用。 
神を信じるというときには、神の言葉を信じる、主イエスを全面的に神の子として、すなわち神と同質のお方だと信じるというならば、主イエスの言葉をも信じるのである。
このような単純な信仰、それゆえに力ある信仰こそ、私たちが持つべき信仰だと主イエスは言われている。そしてそのようにまっすぐな信頼の心をもって神を、あるいは主イエスを見つめる心こそ、幼な子のような心なのである。
「…イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」」(ルカ18の16~17)

聖書の中から

〇「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ福音書 14:27)

〇「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かにわたしをここに住まわせてくださるのです。」(詩編4:9)

「いのちの水」誌 2023年2月号 〝平和への道〟より引用。
人間の中にある動物的な本能的ともいえる本質は、自分中心ということです。自分を守ろうとし、自分が認められたい、ほめられたい、あるいは、自分の欲望を満たすために相手から何かを奪い取ろうとする、弱いものを餌食にする、自分の力を増やしてさらに支配を強めようとする…等々。 
キリストは、「私は平和をあなたがたに残す。私の平和を与える。私はこれをこの世が与えるように与えるのではない」と言っています。 
「平和」という言葉、この原語は、エイレーネーというギリシャ語です。そしてそのギリシャ語の背後にあるのが、ユダヤ人の言語であるヘブル語(*)です。

聖書の中から

〇「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネ福音書3:16)

〇(略)「あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ書43:1~2)

「いのちの水」誌 2021年11月号〝見えること、見えないこと〟より引用。
このイザヤ書が書かれた時代においては、神の民とはイスラエルの民であったが、現在においては、ここでの呼び掛けはそのまま神を信じ、キリストを救い主と信じる人たちすべてに対して言われている。
キリスト者が信じる神とは、無限に広がる宇宙からこの地上の全世界、目に見えない細菌などの微生物を含めいっさいを創造された神であり、しかも完全な愛と真実をもっておられる存在である。 そのような神が私たちを創造された、作られたのであるゆえに、「恐れるな!」との力を込めた呼び掛けがなされている。

 

(文:T.YOSHIMURA、イラスト:投稿者)