著作家のことば
(209)祈りは力である。また、祈りは働くことである。私たちは生きて働く神に向かい、行動へと送り出される。…祈りは、ことばを最高に用いることである。(フォーサイス著 「祈りの精神」26頁 )
○祈りは、神からの力を与えられ、その力によって働くことへとうながされる。神はむだには力を与えられないからである。そしてそれが小さな行動であっても、そのことを通じて新たな力を与えられる。 人間の言葉の最もよき使い方は、祈りだと言われている。神に向かう言葉、人への愛のこもった祈りこそは、言葉が最高に用いられていると言える。
(191)病気や高齢の人のなかには、「私は人の役に立つようなことは何もしていない」と言って心を痛める人がいる。しかし、彼らは忘れてしまったのであろうか、その祈りはいつも神に迎え入れられているということ、その祈りは彼らの思いをはるかに超えて何らかの事を満たしているということを。(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ著 149P)
○私自身、このような嘆きの言葉をよく耳にしてきた。しかし、弱き者を慈しまれる神、キリストに従う者だからといって差し出す水一杯にも豊かな祝福を約束された主は、病の人、老齢の人の小さき祈りをも決して無にされることなく、それを必ず何らかのことを満たすために用いられる。それはだれかの心の平安を満たすことであったり、社会のどこかにいのちの水を、平和をもたらすことであったり、病の人の苦しみを軽くすること、家族のなかに恐れを神への信頼に変えることであったりするであろう。
(170)祈りの人とは、単に祈りをする人ではない、祈りによってすべての事をなす人である。
更に進んで、祈りによるのでなければ、何事もすることができない人である。祈りによって学ぶ人である、祈りによって戦う人である。
すなわち自分の力によってするのでなく、神の力によって万事をなす人である。…
祈りの人とは、祈りは真実の力を持っていることを確信している人である、これに天地を動かすに足る力があることを信じて疑わない人である。
宇宙において最大の力を持っているのは、霊である神であることを知り、霊の誠実によって神に近づき、神から超自然的の力を受けようと願う者である。(内村鑑三・全集 第18巻 199~200頁 口語的表現に変えてある。)
○主イエスは「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなさい。つながっていなければ、自分では実を結ぶことはできない。」と言われた。主イエスにたえず結びついているとは、ここで内村が言っているように、たえず祈りの心をもっていることと同じである。
