清さとは

聖書の中から

〇「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。」(箴言 30章5節)
〇心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ 5章8節)

「いのちの水」誌 2011年10月号 〝主は心を見る〟より引用。

野の花を見よ、といわれた。それは、創造された神のお心を見ようとすることであるし、太陽や雨を見てもやはり、そうしたものを創造されたその神の心を見ようとすることである。

 聖書の記事も同様である。言葉の表面だけでなく、その言葉や出来事の背後にある神様のお心、ご意志を見ようとすることが求められている。

 敵対する人、自分を攻撃してくる人に対しても、なぜそのようなことをしてくるのか、なぜ神様はこうしたいやなことを起こされるのだろうか、とすべてをご存じである神のお心を知ろうとする。

 罪を知るとは心を見ること。自分の心を見ること。そして、まず神の国を求めるとは、神のお心を見ようとすること。

 罪を犯すとは、神のお心を見ようとしないところから生じる。

 心の清い者は、神を見る、と主は約束された。心で見るといっても、汚れた心、自分中心の心で何かを見ようとしても見えてこない。

 それは清められた心でみなければならない。聖なる霊により、また神の言葉によって清められる(ヨハネ15の3)ときに、はじめて「神を見る」と言われていることが成就する。

 神を見る、というとあり得ないように思われるが、神の本質たる愛や、清いもの、美、力、永遠、といったあらゆるよいものが見えてくる。それを与えようとする神の心も見えてくる、感じられてくるということなのである。