聖書の中から
〇「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。 「光あれ。」こうして、光があった。(創世記1章1~3節)
「いのちの水」誌2005年8月号〝旧約聖書における神の愛〟より引用。
聖書の最初におかれた創世記には、まずこの世には完全な闇と果てしない混乱とがあったことが記されている。そしてそのただなかに、神が「光あれ!」と言葉を出された。それによって、深い闇の中に光が現れ、神の言葉に従って混乱の極みであった暗黒世界が秩序あるものとして整えられていった。
これは人間の心の状態を映し出している。私自身、この箇所はキリスト者となる前には、現在の自分とか世界とは何の関係もない古代の話だと聞き流していたであろう。実際、私の大学時代、キリスト者となって間もない頃、親しかった理学部の友人にこの創世記の話を少ししたが、彼は「古代の神話だね!」といって笑って聞き流したのみであった。
しかし、この創世記の最初に実は聖書全体のメッセージが凝縮されているのである。この世は闇であり、何が正しくて歩むべき道なのか、まるで分からなくなった無数の人たちの群れがある。そうした闇と混乱のただなかに光が差し込むとき、まったくそれまでと異なる状況が訪れる。
闇にあるときにはどう考えたらいいのか、この深い悩みと苦しみからいかにして脱することができるのか全く分からなかった。そして周囲の友人や親、大学の教師たちもそのような答えはまるで持っていなかった。そこから私は引き出されたのであった。それは光が闇に閃光のように差し込んだのであり、この世を貫いている真理の流れが初めて感じられるようになった。
そこに深い神の愛を実感した。それまではどんなにしてもその恐ろしい闇から抜け出すことができず、どんな人間もどうすることもできなかった闇から救い出して下さったのは、人間の愛でなく、神の愛そのものであった。
キリストのはたらきもまさにそのような闇から救いだすことであったし、そのためにこの世に使わされたのである。
このように、聖書の冒頭にある有名な言葉、闇と深い淵、あらゆる混乱のただなかに「光あれ!」と言われて、そこに光が存在しはじめた、という記述は、聖書全巻を貫く神の愛を宣言しているものなのである。
人間の苦しみや悲しみはいろいろな場合に生じるからだれでも何らかの形で持っている。愛する者が奪われた、人から認められず、愛されず無視されたり見下される、差別される、貧困や病気、物質的には豊かであってもなすべきことが分からない、希望がない、生きる支えがない…等々。そのようなときには心に闇があり、考えるべきこと、生きるべき道が混乱して分からない、ということである。生きていく力もなく、そのような気持ちにもなれない、という状況である。
「光あれ!」という聖書の最初に出てくる言葉は、そのようなあらゆる状況から導き出すものと言えよう。 愛とは苦しみや悲しみの中においてこそ、いっそう深く感じるものであり、そのように光を与える神の愛が全巻の最初のところに与えられるところに、聖書が愛をメッセージとしているのが浮かび上がってくる。
(文 T.YOSHIMURA)
