聖書の中から
「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」」(ルカ2章10節~12節)
「シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」(マタイ16章16節)
「いのちの水」誌 2011年12月号〝キリストは何のために来られたのか〟より引用。
クリスマス(*)、それはキリストへの特別な礼拝のときである。
それは、キリストがこの世に来られたことの意味をあらためて思い起こし、記念し、感謝を新たにし、さらになおいっそうの力を与えられることである。
世界にひろがったキリストとその言動の記された新約聖書、その誕生を記念するクリスマス、その復活を喜び記念するイースターなど、キリストにかかわることは全世界に見られる。
(*)Christmassは、Christと mass からなる語で、キリストのミサという意味であり、キリストへの礼拝を表す。
来るべきメシア(キリスト、救い主)は何のために来られるのか、それは弱き者、傷ついた者、消えていこうとするような者を顧みて、新たな命を与え、不正に満ちたこの世に正義を、正しい道を(口語訳)を示すためなのである。
そしてそのためにこそ、神はメシアに神の霊を豊かに注がれた。
人間の生まれつきの性質では、このような弱き者への愛や、消えていこうとする者に命を与えるなとどいうことができない。わずかにできたとしても、それは必ず一時的であり、また相手が自分に対してのお返しがなければ続かない。よきことをした相手が恩知らずのような態度をみせるととたんに嫌悪感や落胆あるいは軽蔑などに変わったりしてしまう。
メシアとは、そうしたいかなる人間的感情を越えて、人間を助け、救いだそうとして下さるお方である。それは神の霊の力なくしてはできない。
キリストは何のために来られたのか、それは自らが十字架で死ぬことにより、人間の根本問題である罪の赦しを人類に与え、さらに聖なる霊(神の霊、キリストの霊)を与えて、新たに生まれ変わらせ、力を与えてその聖霊に導かれて生きるようになるためなのである。
