聖書の中から
〇 「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、(10)兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ローマ12の9~10)
〇「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(15)喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12の14~15)
〇「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12の19~21)
「いのちの水」誌2011年12月号〝偽りのない愛を〟より引用。
ローマの信徒への手紙は、福音の根本を明確に記しているということで比類のない重要性を持っている。私自身も、この手紙の3章のわずかの箇所の説明を読んでキリスト教信仰に導かれた。
「福音」という言葉は、もともと中国語であり、現在も中国語の聖書に使われている。この意味は、喜びの音ずれであり、喜ばしい知らせという意味である。人間の根本問題の解決の道を示すものだからである。その根本問題こそ、救いはいかになされるかであり、そのことがこの手紙に明確に記されている。(3章~5章)
それとともに、重要なのは、12章からは、救いを与えられた者の歩むべき道が記されているということである。
そして、現在も世界の重要問題であり続けているイスラエル問題の究極的な解決の道も9章から11章にかけて記されている。
救われた者の歩むべき道ということで、その最初に記されていることは、真の礼拝とは何かである。
それは、私たちの心身を主にささげていくこと、日々の生活を聖霊の導きに従って生きることだと記している。
また、キリスト者とは、キリストに結ばれたひとつのからだであり、それぞれがからだの部分として、自分に与えられた賜物を用いて、具体的にできることをなしていくこと、それが真の礼拝につながることを述べている。
さらに、すべての人に対してあてはまる最も大切なこと、愛について述べている。
それは、まず、次のような言葉である。原文を直訳すると次のようになる。
愛は、偽善的でないようにせよ。 (*)
悪を憎み、善に結びついていなさい。(ローマの信徒への手紙12の9)
(*)この文は、新共同訳では、「愛には偽りがあってはなりません。」と訳されている。偽りがあってはならない、という語の原語は、アニュポクリトス anypokritos であって、これは、否定の接頭語 a に ヒュポクリノマイ hupokrinomai 見せかける、偽る という動詞から作られた言葉で、偽りのない、という意味になる。なお、ヒュポクリノマイから、ヒュポクリテース 偽善者 という言葉が生まれ、これはそのまま英語に入って hypocrite 偽善者、hypocrisy 偽善 という言葉になっている。
主イエスは、律法学者やファリサイ人たちに対して、偽善者たちよ! と繰り返し厳しくその偽善性を指摘している。(マタイ23章)
このように、愛し合え、というより先に、愛が偽善的でないように(偽りのない愛であるように)、といういましめをのべている。
他の箇所でも、パウロは、「私たちは、大いなる忍耐をもって、苦難、労苦…親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉…などによって」神に仕えていると述べている。(Ⅱコリント6の6)
さらに、「あなた方は、真理に従うことによって、偽りのない愛を抱くに至った…」 (Ⅰペテロ1の22)というように、ペテロの手紙でも、この言葉が用いられ、偽りのない愛ということが強調されている。
なぜこのようにとくに言われているのか、それは、愛が偽りを伴っている、言い換えれば愛らしく見せかけるが実は、愛ではないということがあまりにも多いからである。
この世で愛と思われているものは、実は、真の愛ではない。そこには何からの自分中心がいつも入り込んでいるという意味で偽りの愛だと言える。なぜかと言えば、真実の愛とは、無差別的で、主イエスが言われたように、太陽や雨が誰にでも降り注いでいるように、特定の人だけに及ぶということでない。たとえ無に等しいような者でも、汚れた者、あるいは敵対するような者でもまた、死に瀕しているような人に対しても同じ様に働く。
しかし、この世の愛は親子、兄弟、あるいは男女の愛など、みな極めて限定的である。自分の子どもなど家族、あるいは特定の異性とかにしか働かないからである。そうした愛は、いつも自分の家族、自分が好きだ、といったように、愛の動機に自分というのがその根底にある。
また、この世の愛は、すぐに消えたり変質する。最も激しい男女の愛は、また一方の者のちょっとしたひと言や自分中心の行動でもたちまち冷えていくようなはかないものである。
これに対して真の愛は、神に根ざしているゆえに永遠であり、相手がどのように変質しようとも、あるいは悪くなろうともなお注がれるような本質をもっている。 このように、真の愛にくらべるとき、この世の一般に言われる愛はみな、きわめて限定的であり、一時的である。それは、愛のように見えるだけで、実は自分の願いや欲望の変化したものにすぎないという意味で偽りの愛ということにある。それゆえに、新約聖書では家族同士の愛や男女の愛などはまったく触れてもいない。(文 T.YOSHIMURA)

